三条河原はかつて京都の処刑場で、 戦国時代には激戦地でもあり石川五右衛門豊臣秀次の一族が命を落とした血なまぐさい場所。古くは平将門(生首はここから現在の東京都千代田区の「将門の首塚」まで飛んでいった)また石田光成、千利休、近藤勇などが晒し首にされた場所でもあり応仁の乱の時には死体置き場だったという。

鴨川の河原、とくに三条河原あたりの現在はカップルのたまり場。

鴨川の三条~四条の川原ってカップルが何組も座ってるけど間隔がほぼ一定で面白い。

京都四条河原の橋の下、若いカップルが座ってる。川の脇道って処刑所だったらしいね。

処刑がたくさん行われ晒し首などがされていた鴨川沿いも、今ではカップルが並んで座る名物スポットに様変わりしています。あの辺りこそ京都で一番怨念が漂っていそうなもんなんだけど。

鴨川での処刑は、かつては六条河原で行われていましたが、石田光成を最後に三条河原に処刑場が移りました。豊臣秀次の一族郎党39名が斬首されています。
今ではカップルが集っているのを見ると、怨念なんてないなと思わされます。

京都の刑場といえば、六条河原・三条河原・粟田口などですね。石川五右衛門、豊臣秀次一族、保元の乱で敗れた上皇軍、幕末の志士たちを始めとする多くの処刑が行われました。現在、粟田口は観光地、六条河原は市民の憩いの場所、三条河原はアベックがくつろぐ場所になっています。

南禅寺から蹴上の裏山付近の粟田口には、古くから京都最大の処刑場があって、明治までの1000年にわたり、1万5千人以上の首がはねられたとされています。

栗田口の刑場跡は昼間でも薄暗くてカラスが泣き騒いでて超怖いけど…

粟田口刑場跡拝んできなさい。最近はだ~れもお参りしてないから怖ぇぇぞぉぉ 
ここ道路拡張の時の大量の人骨と瓦礫と化した墓石が出て、埋め戻してリサイクルの碑を建てた。ちなみにこの瓦礫には新撰組局長近藤勇の墓もあったとか…

粟田口刑場跡慰霊碑… 山切り開いて道路作る時にわんさか墓石と人骨の欠片が出てきたところ…よ。ウワサでは新撰組の近藤勇の墓もこの瓦礫の中にあったとか… 男が2人碑の前に座っている時もあるとか…

粟田口刑場は実際には厨子奥村飛地(京津線旧九条山駅付近の山手)また、現在の蹴上浄水場と九条山駅の間、三条通(府道43号線)を挟んだ山手付近、また、東山ドライブウェイの陸橋の西より浄水場東端の間にあったという。日岡(日ノ岡)刑場とも呼ばれ、磔刑、獄門があった。

平安時代以来、鴨川の川原は、貧民が餓死したり,政治犯が処刑されたりした所でしょ。
もし「霊が見える」という人が居るなら、三条から六条あたりまでは、おびえて歩けないでしょう。

三条河原は、確かに刑場だったけど、今は見事にコンクリ舗装されすぎてみる影も無いよ。
ただ、見える人には・・・川の水面に無数に浮かんで見えるらしいね…。霊感の強い人なら鎧姿や身体に矢を刺した人の霊がわんさと見える。

京都は、現在デートスポットになってる川沿い(鴨川)の三条~六条は昔は刑場だから死刑囚たちの生首が見せしめにいくつも飾ってあった。とにかく無数の人が死んでる。  

今でも夜とか、霊感のある人が見ると、川の波間に首がいっぱい浮かんで見えるそうだよ。


よくあんな三条河原にカップルで並んで座ってられるよな。強い霊感持ちの知人が鴨川で均等に並んで座ってるカップルを見て絶句してた。もの凄い光景になってるらしい。

霊が視える人には、三条大橋のよろい武者の霊がたくさんいるとか…。
自分は視えないし感じたりしないので、確認できないんでなんともいえないが、橋の近くのスタバには、観光客の外人さんでいつもいっぱいだよ。

三条大橋の河原で豊臣秀次の妻子39人が処刑されてる。お墓は、三条大橋の西詰の端泉寺にある。秀次は秀吉の甥で秀頼が誕生した後、高野山に追放されて自殺だってさ。

何の罪もない秀次の妻子やら次女やら側室候補の姫まで殺された場所。

秀次は屋内で切腹(忠臣蔵で問題になったように屋外で身分が高い人の切腹は通常ない) 
でもって河原にその首さらして妻やら子供やらを処刑した。通常敵になりうる男児を殺しまくった頼朝の例はあるけど女性や女児は殺さないのが普通の時代にね。その結果、頼朝の直系傍系が絶え果てたように秀吉の直系傍系絶えちゃった。

幕末には等持院にあった足利尊氏らの木像の首まではねられて鴨川で晒し首になってる。

織田信長に反旗をひるがえした荒木村重の妻子、家臣数百名も三条河原で晒し首。

さらし首は三条河原ではなく、三条大橋だよな、細かいけど...

三条河原に風呂桶以上の大きさのでっかい釜が用意され、それをぐらぐらと煮立たせていました。
処刑は、石川五右衛門の関係者全員を対象に行われた為、五右衛門の子供も油が煮立つ釜に放り込まれました。しかし、五右衛門は、子供を頭上に持ち上げて外に出します。そして「石川や 浜の真砂は つきぬとも 世に盗人の たねは尽きまじ」と辞世の句を叫びやがて全身の皮膚が爛れ、死んでいくのです。

三条大橋の欄干の刀傷(池田屋騒動時についたとされる)も有名。

乱や飢饉や疫病が流行った時等、京都はそこらじゅうが死体置き場だった。
三条から五条河原、川沿いなどは見るも無残な地獄絵図、お寺があればその敷地に埋葬されず放置された骸や埋葬待ちの骸投げ込み寺のようなところもあった。

三条と四条間の川端通り東側の小川が流れてる遊歩道。三条寄りにある、お社に鍵がかかってるお地蔵さん。近くを歩くと変な圧迫感を感じました。嫌な感じの圧迫感でした。


京都の五条処刑場跡ってどの辺なんでしょうか?

刑場は六条河原首級が晒されたのが三条大橋のたもと

六条河原で処刑後に三条でも晒されてた、後年は刑場が三条河原に移ったんだったか

当時は鴨川の幅がもっと広かったし処刑場も今の三条河原からずれてるらしいね。
秀次の塚がある瑞泉寺のあたりが処刑場だっけ?

京都の三条あたりから山科にぬける山道あたりを通って行くと石碑あるよ。

鴨川の川幅は、1409 年頃は 260m、1711 年頃は 115m だと。秀吉の三条大橋は長さ 101m、現在の三条大橋の長さは 74m。(川幅より橋が短いのは両端に橋詰があるせい)
5条大橋の近辺には昔は島があったが、埋めて今は町になっているようだ。
秀次の妻妾たちが首を切られた河原も広広していたと想像される。跡地の塚が今は瑞泉寺のところだと言うし。
広い川幅の鴨川は、うってつけの三途の川で、川の向こうはこの世のものでないイメージだったんではないか。

現在の五条通が当時の六条通。したがって、現在の五条大橋の南、正面橋の北の鴨川西岸(右岸)。平安時代から江戸初期まで無数の罪人が処刑された六条河原刑場。

五条大橋は、牛若丸と弁慶の逸話で有名

実際に弁慶と牛若が戦ったのは五条大橋じゃなくてもひとつお隣あたりの松原橋やったかな。六道の辻へ続く橋やったとも言われてますね。
京都の話は実在の人とかも混ざって色々な話が残るのでなんか不思議ですよね。

市中引き回しコースは、御所周辺から一条戻り橋 丸太町寺町 松原寺町 六道珍皇寺 松原東山 東山五条 山科刑場 最後に三条河原で晒し首。

秀吉の頃、京都でキリシタンが捕らえられて、耳をそがれたまま、 一条戻り橋⇒三条橋と引き回され、長崎で処刑されたんだよね (26人の聖人だっけ?) 「踏み絵」なんかも京都(堀川にあるフランシスコの家)に残ってる。 歴史的に、京都はキリスト教とも縁が深い。

近藤勇の処刑後に三条大橋に晒した首がその後から行方不明らしい。

墓というか首塚は東山山中にあるそうですよ。
明治維新後、悪人扱いされていたので関係者が墓守をしていたのだそうです。

近藤勇の首は三条河原に晒された後、東山のどこかに葬られ、その場所には石碑まで建ててあると聞きます。本当に首塚の位置は不明になってしまったのでしょうか?
それとも明治新政府のもと、敵方だった近藤局長の首は隠密裏に御陵衛士により守られ今に伝わっているのでしょうか?場所も東山と判明していて石碑も建っているのに何故場所が不明になっているのでしょうか?

首そのものが在るか無いかは不明だけど首塚なら今は愛知県。
藤川宿の東側にある三河岡崎の法蔵寺に在る。
1868年に板橋の刑場で斬られ、首は京都に送られて三条大橋の河原にさらされた。
寺伝によれば同志が首を盗んできて弥空義天和尚に託したらしい。
和尚は当時三河国法蔵寺に転任していたため、そこに埋葬したという。
生まれて24年京都に住んでるけど京都には無いよ。

三河には、信玄の墓やら土方の墓やら近藤の墓やらいっぱいあるがこの場合の近藤の墓ってのはインチキ。三河の新撰組関係の墓は、墓ではなく鎮魂供養の為の石碑。近藤の首は京都にあるのが正しい。それも東山のどこか。

首は洛内のどっかに埋められたのかはわからんけど塚なんてホントに建ってたのかなぁ・・・

京都出身の京都育ちだけど東山の首塚なんて明智十兵衛と源木曽次郎、あと豊臣秀頼くらいしか知らんよ

世情が近藤には不利な状況なので、近藤の近親者が首を東山のどこかに埋め、塚を作って石碑を建て墓守をやっていたのだという。しかし、明治新政府下では近藤は大罪人の為、その塚は公にされずに墓守がなくなったため、結局場所の特定が出来なくなった。墓守は、知人にも場所は教えなかったのだそうだ。

誰でもいけるような場所ではなくてあの東山の山中のどこかってことではないのかな?
全山くまなく探すのは、京都市とか国単位でないととても無理だろう。
だいたいの位置がわかればいいが、まったくわからないのでは探すのは不可能。

京都の観光地の目玉である三条四条河原には、そのむかし生首が並んでいたんだね。

納涼床が浮世絵に描かれるくらいの由緒正しき観光名所なんだけどね。
観光名所だから、晒し首とか高札が置かれてたわけで。。。

三条大橋は京都でも人が集まりやすい場所なので重要人物の処刑や晒し首の場合は周知のため特例的に三条河原で行われた。

三条河原は人が集まるところで、だからこそ政治的な虜囚をさらした。その中には権力闘争に巻き込まれただけで罪のない人もいた。
戦乱の時代はそうやってあえてみんなが集まる華やかな場所で処刑することで注目を集め権力を誇示した。

江戸の日本橋から始まる東海道五十三次の終点は三条大橋であった。
京都の表玄関とも言える三条大橋は、人の行き来も活発で交通の要所でもあり人の多く集まる場所は見せしめには格好の場所であった。幕末には新撰組の近藤勇の生首が三条大橋で晒された

いろんな時代にいろんな処刑がされていたのは史実ですけど、そしたら高いお金払って川床料理楽しんでる客は絶叫もの?

四条河原も面白い場所だ。現実の人間だけでない賑わいがあると思う。

五条大橋の下なんか、夜中はめちゃ怖いよ。もっと怖いのは御池~四条間の河川敷かな。
今日みたいな雨の日は堀川の一条戻り橋の暗渠。

現在の五条通が当時の六条通。
したがって、現在の五条大橋の南、正面橋の北の鴨川西岸(右岸)。平安時代から江戸初期まで無数の罪人が処刑された六条河原刑場の跡も、今では無数の人家が密集している。
江戸期以降の京都の刑場は、西刑場と東刑場。東刑場とは、有名な粟田口刑場。
蹴上浄水場の南、東山ドライブウェイの花鳥橋の北、九条山の西麓。都ホテルからもすぐ。
西刑場とは、西土手刑場のこと。西大路太子道上ル。紙屋川(天神川)を渡ったあたり。昔罪人は一条戻橋のたもとの地蔵に餅と花をそえ、今度人の世に戻ってくるときは、真人間として戻ってくるよう祈願し、西か東の刑場に曳かれていったという…
明治初期までの京都では、西は西大路太子道上ル西土手刑場、東は粟田口刑場(今の浄水場のあたり)が有名だが、もうひとつ臨時の刑場があったらしい。それは、千本三条西入ル旧土築の薮地(現在のJR二条駅付近)にあったといわれ、明治三年、開墾したところ約700個の頭蓋骨が出土したという(明治三年京都改進新聞)。これは、安政年間京都東奉行であり「首斬奉行」とあだ名された関和泉守により処刑された、1518人の処刑者たちの一部といわれている。何でも、五両以上盗んだ盗賊もすべて斬刑に処したそうな。
約五年間に京都だけで1518人も斬ったとは、何ともはや凄まじいお話どした。

京阪五条駅から清水寺に至る道です。
謡曲、熊野の中にも「げにおそろしや」などと書かれてとても有名です。
まず五条駅から鴨川に出て少し歩くと、そこからして怪奇ゾーンです。
その場所こそ平安時代からの正規の京都の処刑場、六条河原です
保元の乱で平忠正が切られて以来、この美しい川のほとりに命を落とし、首をさらされた人は数知れません。有名な人物だけでも、木曽義仲、平宗盛、楠木正成、そして秀吉の家臣、小西行長、安国寺恵瓊、石田三成と本当に多いです。石田三成は、首を切られても目が開いていたので、首切り役人が急いで首を起こしたそうです。四条河原は幕末の時に切られた人が多く島田左近、本間精一郎、目明し文吉などが有名です。
あと忘れてはならないのが三条河原です。豊臣秀吉の甥っ子秀次の妻妾幼児たちが処刑された事件が有名です。39人も切られ見物人ですら幼児が処刑人にひっさぐられて殺されていくのを見て「こんなに惨かったのなら、行くのではなかった」と泣いた人が多かったとか、川の水の色が変わったと言うがあながち誇張でもないのではないかと思います。

数年前、妻と結婚する前のことなんですがデートで京都へ行きました。時間は午後3時ぐらい。
木屋町から三条の方へぬける川沿いの道を歩いていると妻が突然尿意をもよおしたようで、ちょうど目の前にあった公衆トイレに駆け込んで行きました。便所の前で待ってるのも なんなので橋のたもとで座ってトイレの方を眺めていると、妻が半分切れ気味に出てきたのです。
理由を聞いてみると、個室でしゃがんでると頭の上からわたしの声で何回も名前を呼ばれたそうです。かなりの大声だったらしいのですがわたしはそんなことはしていませんし、そんな声も聞いていません。それだけの話なんですが昼間のこととはいえ妙に気持ち悪かったので覚えてるんでしょう。
妻がトイレに入ってるときに誰も出入りした人がなく妻も誰もいなかったと言ってました。
場所は川沿いの道にあって川をはさんだ向こう側に学校みたいな古い建物とパチスロ屋があったように思います。公衆トイレの裏が駐車場だったかな?

そこら辺は明治維新までよく辻斬りとかがあった所。幕末4大人斬りの人斬り以蔵河上彦斎(かわかみげんさい)が暗躍してた場所。


幕末の頃の木屋町あたりは天誅という名の暗殺もけっこうあったよ。

げっ・・・やっぱりそんな話あるんですね。京都は怖いところだあ。

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