出町柳駅(でまちやなぎ)ってあるけど、駅降りた途端脅かしてやろうと幽霊が柳の木の下で待ち構えてそうな地名だよね


桂の方に有る山で「ポンポン山」ってのがありますが,昔土葬でしばらくすると人の分だけ空洞ができて歩くとポンポン言ったからだそうです。


左京区の「上終町」だったっけ、あれも昔は「髪(が)果(てる)」だかなんだかそんなの。 

髪の毛の先端、つまり、そこから先は人間の世界じゃない、とかなんとか


四条通りを境目に大和大路通りから「縄手通り」に変わりますよね。

あれは、江戸時代?それより前に悪人が手に縄をかけて歩いた為、四条から三条までが縄手通りと言うらしいです。三条の河原で首を切られたらしいです。

ちなみに切った首は三条河原などで晒されていたが、胴体の部分は刑場近くの谷などに捨てていた


帷子ノ辻(かたびらのつじ)と言う場所もあるね。死体に着せる帷子という意で風葬の地


渋谷街道」はもともと死人谷(街道)と呼ばれていたのがなまったもの。

 

渋谷は遺体を捨てていた場所なのでその汁が…汁谷がナマって渋谷になったとか聞いたけど。


沓掛が「猿ぐつわをかける場所」という意味から、「くつかけ」になったとかな。どこまで事実なんだか…


沓掛は、峠越え(老坂峠)のために(沓を脱いで)休んだところ・・・ていう意味じゃなかったの? 

沓掛自体は街道沿いの宿場で、古い場所だしそういう意味では罪人を縛り上げる場所なのかな


きぬかけの道」について。昔なんとか天皇が、夏に雪山が見たいと言いいました。 

なので小さな山に白絹をいっぱいかけて、白くなった山を雪山に見立てて風情を楽しんだ。 

それが今の「衣笠山」。よって昭和になってその近くにできた観光道路に「きぬかけの道」と名付けたそうです。ちなみに衣笠山には「鬼の広場」という広場がありました。由来は不明です。


衣笠は京都郊外に死体が転がってた頃(応仁の乱あたりか)に衣やら傘やらを死体にかぶせたからそんな名前になったとか聞いた・・京都の地名は恐ろしいなあ。


西京極という場所がありますが、ここなんかは京と京のはずれの境界とされていたようで、確かにそばには大きな桂川が流れそこをわたれば昔なら都を離れた気分にさせられたと思いますが、平安時代ならさながら人間界を離れたくらいの寂しい状況だったと想像させられます。


西京極へはバイトでよく通いました。

昼間はにぎやかなところで市内でも京の魔界話とは無縁な感じがしますが、夜になると少し不気味な感じがします。また住宅地よりも工場やなんかが多く、これは勘ですが住居には不向きが理由があったのかもしれません。


その西京極のそばに阪急京都線に西院(さいいん)という駅があります。

なんとなく京都らしい優雅な印象があり、wikiで調べたら淳和天皇の離宮の淳和院が別名「西院」といわれ、これが地名の由来となったとあります。


京福電鉄の西院と書いて「さい」と読む方をとりあげ、さいの河原の賽(親より早く亡くなった子供が行く地獄で石を積み上げると鬼が崩すというのを永遠にしなければならない)から由来しているという。

実際に高山寺というお寺には「西院(さい)の河原」の跡地を示す石塔がありました。


★西院(さいいん、さい)

親に先立って死亡した子供が親不孝の報いで苦を受ける場所が賽の河原。

といえばまず青森県の恐山を思い浮かべるがその由来は京都・鴨川と桂川の合流地点西院 (さい) の河原から来ている。

足利義政の妻、日野富子は西院之河原旧蹟の高山寺に祈願して義尚を生んだが、養子になっていた義視との間に跡目争いが起こり応仁の乱に発展、平安京を焼け野原にしてしまった。

戦乱で亡くなった子供達の霊が西院の河原、すなわち賽の河原で「ひとつ積んでは親のため 」 と河原の石を積んでいると鬼がやってきて折角積んだ石を崩してしまう。

すると高山寺のお地蔵様が現れ子供達を救ったという伝説から子供守護の信仰が生まれた。


山科区の「血洗町」は斬首に使った刀を洗っていた場所…なんて俗説がありますが…。


山科は都で罪を犯した科人(とがにん)を山奥に隔離した土地


山科区(やましな)の「ホッパラ町」にも死体がたくさんほったらかしてあった。


ホッパラ町は刑死した罪人の死体を埋める穴を掘った原っぱってのが語源だ

ホッパラ町の由来は骨原。

山科の日の岡も元は死の丘が由来。


京都の山科は怨霊の地とされていただけあって、全体的に曰くつきだと思われるような地名が多いです。

「血洗町(ちあらいまち)」「封じ川」

「廟の町」~天智天皇陵の前辺り。駅名は「御陵(みささぎ)」 

「ホッパラ町」~庶民用の死体捨て場だったのかも?かの鳥辺山を越えた辺り。 東山区にも飛び地をぽつぽつ持ってる謎の町。 

「四ノ宮」~古文献には「死ノ宮」とはっきり書いてあるそうです。日本武尊が死んで鳥になって飛んでいった山のあたり。 

「安朱」「厨子奥」~藤原不比等が若いときにいた辺り。不吉&ガラ悪いとされる山科で、土地柄のいい高級住宅地。「高瀬川」とは関係があるのかな? 

「蹴上」~首切り場跡地。首切り役人が頭を蹴り上げて集めたところからついた。急カーブに急坂の見通しの悪い三叉路で、車事故の多発地帯。


「蹴上」の由来は、罪人を蹴り上げて九条山の刑場に連れていったことから。


★蹴上(けあげ)

源義経は16才になった1174年 (承安4年)

金商人の金売吉次に伴われて奥州へ旅立つ事になり粟田口から九条山の坂に向かっていた時、平家の家臣、関原与市とその郎党10名がやってきた。

義経とすれ違い様、関原らが乗っていた馬が水溜りの水を 蹴り上げて それが義経に掛かり衣が汚れてしまう。

義経は激怒し、この10名を即座に切り捨てた。そして義経が血で汚れた自分の刀を洗った池が蹴上近くにあったと伝えられている。


京の市内から山科区へは小高い丘のような道を越えて行かなければなりません。

そこは琵琶湖疏水の入り口になっている「蹴上(けあげ)」といい桜の名所です。

馬を蹴り上げて走らなければならない急坂から由来していると勝手に思っていました。

ところがこの地名は非常に有名な歴史上の人物が起こした惨殺事件に由来しており、それが牛若丸こと源義経だというのです、彼はこの場所で平家の連中と合間見え、このとき奥州遠征に急ぐため争いを避けるつもりで道の端に寄ったのですが、すれ違いざまにその中の一人が蹴り上げた水が彼の衣を濡らしたことに激昂し惨殺。

丘の頂上には義経大日如来像があり、惨殺した武士を祀っているのだそうです。

さらに、血染めの刀を洗った池が現在も民家の中に残っており、「御陵血洗町(みさらぎちあらいちょう)」という地名が残っているのにはよくもまあそんな名前をと驚きを隠せません。


御陵血洗町という名の由来は、応仁の乱の頃、刀の血を山科川で洗ってたら川の水が血の色で真っ赤になったかららしい


血洗町は、あまりにもすごい地名なので、地元の人が変更を願い出ませんでしたか?


轆轤町(ろくろちょう)私は知らなかった地名なのですが、清水寺の近所ということもあり清水焼のろくろを連想しますがさにあらず、ここは六波羅蜜寺・西福寺があり その西福寺の角が六道の辻で、この世とあの世の分かれ目とされていました。

ここから東は、かつては鳥辺野と呼ばれる埋葬の地で、平安前期には死骸を投げ捨てるだけ中には鳥辺野まで運ぶのが面倒で、鴨川に投げ込む輩も多く、時々洪水が起ってくれないと、鴨の河原は死骸だらけだったという時代、そのため死体だらけの不気味な場所だったため髑髏町(どくろちょう)と呼ばれていたのがあまりに不吉だということで改名されたそうです。


★轆轤町(ろくろくちょう) 

轆轤町は後世になり命名し直した名前で以前は不吉な名前が付いていた。それは何と髑髏町(どくろちょう)。

此処は死体の埋葬地であり、一面に無数の人骨が転がっていた。

江戸時代初期、当時の役人が髑髏町ではあまりに不吉だと轆轤町に変更。


京都の通りは数々あれどその中の一つ千本通(せんぼんどおり)。

ここは平安京の中央を走っていた朱雀大路を起源とし南は羅城門を起点に洛中を出て北には船岡山があります。その船岡山ですが横には死者の埋葬地があり夜な夜な運ばれていました。

まさに冥界への道といった感じで気味が悪いのに、道の両脇にはそれを弔うおよそ千本の卒塔婆が置かれていて、なんとそれが由来だというからおぞましい。

南北を結ぶ通りはたくさんありますが、堀川・西大路・河原町・東大路は使っても千本は道も狭くなんとなく嫌だなと思ってたのがわかったような気がします。そういうとこ京都には多いんですが・・・


千本通にはゆかりの地名も豊富で閻魔前町、千本閻魔堂があり、船岡山の周辺は紫野といい、私もよく走り回った場所、京都らしい風情のある名前でお坊さんの紫の袈裟からきていると思ったらなんと死者が流す血からだという。つまり血まみれの野原・・・唖然。


千本通りは卒塔婆が千本並んでた通りだよな。平安時代のメインストリートなのに…


★千本通り 北端 : 北区鷹峯 南端 : 伏見区納所町

朱雀大路は葬送地の1つである船岡山へ向かう道であり通りに沿って千本の卒塔婆が立ち並んでいた事から千本通りと称されるようになったと言われる。


新京極の隣にある「寺町通」は、かつて「京極通」という名、その「京極通」は人間界と魔界の境界と考えられていたと云う。

よくよく考えれば京の極みなんて普通の場所じゃないですよね…。


思いのままに多くの通りを作り、「京極通」を「寺町通」という名に変えたのは秀吉。

さらに、秀吉が建立した方広寺の前の通りを勝手に「五条通」に変えてしまい現在の「松原通」がもともとの「五条通」だったのには驚かされました。

やりたい放題をした秀吉は京都人に嫌われたようで、秀吉が贅を尽くして御所の近くに建てた邸宅「聚楽第」は今は跡形も無いほど京都人に怨まれたそうです。


その寺町通りもかつて豊臣秀吉が氾濫する鴨川の堤防代わりにお寺を使い、多くの寺が移住させられらたといわれているそうです。


昔はお寺は地域の権力の象徴みたいなところがありましたから、その力をそぐという意図もあったようで大阪人から好かれる秀吉も京都では忌み嫌われている遠因になっているとのことでした。


京極通りを私はあまり気味悪いと思ったことがありません。が、一歩わき道にそれると繁華街の喧騒が静まり、自分が都会の真ん中にいたはずなのに急に原っぱに一人ぼっちにさせられたような気分になることがありました。異空間への入り口がところどころに広がっているような感じです


★天使突抜(てんしつきぬけ)下京区のとある町。

ロマンチックで可愛らしい名前なのですが、これには京都の文化や町を踏みにじった豊臣秀吉が関わっていたそうで、当時茶屋などがあって賑わっていた小川通のにぎわいが錦小路で終わっているのはもったいないからという理由で延伸工事を命じたという。

恐れを知らぬ秀吉の横暴はその場所に商店や民家が立ち並んでいただけではなく五條天神が祀られているのに、それを壊してでもという命令。天神様が当時天使様さまとも呼ばれていたため、天使様の領地を突破したという意味なのだそうです。


豊臣秀吉が洛中を整備したとき、正方形に近い区割りを作ったんだが、後世、町が発達するにつれて不便になったので、南北に家並みをブチ抜いて道路を作ったんよ。それが突抜。

天使突抜「天使突抜通」という通沿いの町。

別にキリスト教起源じゃなくて、五条天神社(西洞院松原下る)が、昔「天使の社」と呼ばれてたからだって。


西洞院通松原を下った所に五条天神宮がある。

五条天神宮祭神の少彦名命は別名・天使様と称され創建当初は天使の宮 (天使社) と呼ばれていた。

豊臣秀吉の都市改造計画により強引に天使社の鎮守の森を貫通して南北に道を作った為京都の人々が皮肉を込めて天使突抜と名付けた。


★錦小路(にしきこうじどおり)

宇治拾遺物語より

昔、清徳聖(せいとくひじり)という聖がおり、母親が亡くなった後、愛宕山で3年間念仏を唱え続けた。 

すると「念仏のおかげで成仏できた」という母親の声が聞こえたので、安心して下山した。 

京へ出る道の途中で、農民の男から米一石をもらうと、腹が減っていたので全て食べてしまった。 

これを聞いた右大臣が聖を呼び、米十石を与えたが、聖の尻には餓鬼や畜生、 

鳥獣などが大量についており、それらが全て食べてしまった。 

その餓鬼や畜生、鳥獣などが四条大路の北の小路で一斉に糞をしたので、小路は糞だらけになり、「糞小路」と呼ばれるようになった。 これを聞いた天皇が、臣下に「四条の南の小路は何と呼ぶのか」と尋ねると、臣下が「綾小路と申します」と答えた。 

それを聞いた天皇は「それならば錦小路と呼ぼう」と言ったので、錦小路と呼ぶようになった


★赤池 京都南インターチェンジ (伏見区) 辺り

時は平安時代末期。 北面武士 の遠藤盛遠は渡辺渡の妻、袈裟御前と道ならぬ恋に陥ってしまう。

袈裟御前は夫の渡辺渡を殺してほしいと盛遠に持ち掛ける。

ところが夫を裏切る事が出来なかった袈裟御前は身代わりになって盛遠に首を討たれる。

袈裟御前の首を傍の池で洗った時、池の水が真っ赤になったので、赤池と呼ばれるようになった。

愛した袈裟御前の首を切ってしまった盛遠は人生の無常を悟り出家。文覚上人となって袈裟御前の菩提を弔った


★桑原町(くわばらちょう)

政敵の左大臣藤原時平との抗争に敗れ大宰府に左遷された 菅原道真 は怨霊となり、京都に災いを及ぼした。

ある時、激しい落雷があったが道真の屋敷があった桑原(現在京都地方裁判所の敷地内)には雷が落ちなかった。

雷鳴は道真の怒号であると言われるようになり雷が落ちない桑原に倣って 「くわばら、くわばら」 と手を合わせる習慣が出来た


京都ってさ、「山紫水明」っていう言葉が生まれた場所って知っていたかね? 

三条にあるでしょ?「山紫水明所」って。


おどろおどろしい由来を隠さず残していて面白いです。

二面性があるといわれる京都人ですが、正直で優しいという気もしてきました。

なんだか逆に京都に行きたくなったのが一番不思議です。



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