30年ほど前の話になるのですが、三条からバスに乗って北方向に行った場所にある山の中の寺で物の怪の里と呼ばれている寺があるそうなのですが、ご存知の方はいらっしゃいませんでしょうか?
私の母親が若いころに行った寺でかなり怖い場所だったそうです。ちなみにバスは終点だったそうです。

数年前、魔界都市としての京都ブームがありましたけど、安倍晴明も注目されてましたよね。
その時に、平安京に巣くう魑魅魍魎が全て集まる場所といわれてきた寺が洛北にあると聞いたのですが、どなたか知りませんか。
今でも山伏の修行場となっているため、たやすく取材には応じないとか。
寺の境内では今も数々の怪奇現象が起きるらしいのですが。

京都にものすごい霊力の強い寺だか神社があるでしょ? 魑魅魍魎が集まる桁違いの場所っていう話聞いて、地図で調べたら山奥の行き止まりの部分に建てられれてびびった思い出があるけどどこだっけ。。。

全国レベルで最強の場所だって聴いたことあるなぁ。

ああ、あれだ。京都最大の魔所だとかいう古刹だ。でも場所も名前も不明確なんだよな。
よく京都モノにありがちな架空の寺もこの寺がモデルになってたりするとか。

うろ覚えで何なんだけど、昔有名な作家(司馬遼太郎?)の本でポルターガイスト現象みたいなのが起こる寺というのを読んだ事があるんだけど・・・。

司馬遼太郎が行ったっていうなら、岩屋不動志明院じゃないかな?
洞窟があって、なーんか霊気漂うところだよ。

司馬が泊まって怪異体験したお寺がそこだよ。エッセイで語ってる。
まだ新聞記者している頃の話だったと思うが。

作家の司馬遼太郎氏が新聞記者時代に度々訪れて怪現象に遭遇したことでも有名。

京都中の魑魅魍魎を封じていて、司馬遼太郎もそこで体験した怪異を書き残している京都最大の魔所が石楠花(しゃくなげ)で有名な志明院。他の心霊スポットと称される場所とは別格過ぎて、語られることも少ない。

岩屋山志明院の妖怪は、室町時代に書かれたという寺伝の古文書にも出ているとのことであるが、今では石楠花の寺として良く知られるようになった。

岩屋不動さんとも呼ばれる。大昔は都、特に御所を潤す加茂川の源流を鎮る龍神様を祀る寺として特別な役割があったとされていた。一般拝観コースの奥に行場があるのだが、立ち入り禁止。とても気になるところだが。

別名 『密教最後の修行寺』『妖怪が現れる寺』etc

650年に役の行者が草創、829年に弘法大師が再興。本尊不動明王は弘法大師の直作であり、根本中院眼力不動明王は菅原道真公一刀三礼の彫刻。
鴨川の水源地である洞窟の湧水を重視し皇室からの崇敬される。現在の志明院は石楠花が有名であり6月になると全山に花を咲かせる。
しかし、このお寺には数多くの妖怪、幽霊伝説が語り継がれている
住職をはじめ、司馬遼太郎氏、大浦龍宇一氏など著名人の方も経験している。

歌舞伎十八番「鳴神」の舞台となった寺。
歌舞伎好きのシラク元大統領も訪れたことがある。

中田英寿もこっそり訪れたことがある

長坂秀佳作「彼岸花」に登場する鬼谷寺のモデルと云われている。
鬼谷寺の説明には「京都の山の中にある寺で、地図はおろか地元の民でも殆ど知る者がいない、あるのかないのかはっきりしない場所」とある。

京都の田舎にある志明院、司馬遼太郎が昭和20年代に宿泊して奇妙な体験をしているという。
あそこは昭和二十年代はまだ電気が通っていなかったから奇怪なことも多かったのかな。

志明院って司馬遼太郎が夜間に体験したてっていう場所?
でっかい天狗の足が空から降りてきたとか、山門の屋根の上に鬼が座っていたとか。
深夜に深山の中から笑い声がするとか。山全体が物の怪の住処だとか。

司馬遼太郎氏の体験で不思議なのは京都洛北の志明院での物之怪体験。有名ですね。

新潮文庫の司馬氏のエッセイ集「司馬遼太郎が考えたこと」の第1巻の石楠花妖話ですね
志明院に行った時のことが書いてあります。
(以下、引用)
…志明院という寺なのである。…寺伝では、少なくとも四百年前までは谷々を埋める坊だけでも四十数軒あったというから、相当な巨刹(きょさつ)であったに違いない。いまはただ、本坊、一宇を止めるだけ。宗派は真言宗仁和寺派に属している。
…志明院というのは、代々の勅願寺で、この寺一帯山林を所有し、明治までは、その寺有林の収益があるのと、勅願寺の権威をまもるために、民間の寄進を拒否し賽銭をあげることすらゆるさなかったといわれる。
…バスを捨てて山路を歩く。道といっても雨の日は川に変わるらしく、岩を避け、凹みに足をとられ大変な難路だ。杉木立が深いうえ、出発が夕四時だったからそろそろ日が落ちはじめ、一町ごとに、あたりの暗さが増してきた。眼の前を横切った物体がある。もう一度、左手の杉木立から右手の木立へさっと消える。
「ムササビですよ」 S君、私の顔を見る。……とたんにヒグラシが人魂のような声でないた。いやな山である。…。
…物の怪とは、たとえば鬼や狐狸やその他の怪物のような実体のあるものではなかったようだ。一種の気体のようなもの、そのくせ随意に音響を立て、人に病いを起させ、時には便所の入口などで黒煙のように立昇り、気の弱いお公家さまを卒倒させる。ところが、年を経るにつれ、いつのほどにか都に住みにくくなり、どこへともなく民族移動をはじめた。
…物の怪ども、世の中が住みづらくなったのにちがい。いずれにせよ、平安期の貴族をおびやかし続けた物の怪は、その後どこへ行ったか。そのときのぼくのインスピレーションでは、この洛北志明院の山中にこそ、彼らの残党が余喘(よぜん)を保っている、ということであった。
(中略)
…外は、月光がいよいよ強くなり、お互いの表情まで見えるほどだった。四人、山頂近くにある奥の院を目標に山中に分け入った。途中、岩窟があり、糸ほどの滝が掛かっている。そこで先導の上田行者が足をとめた。
「この辺で竜火を勧請しましょうか」
この行者、勧請という言葉を使う。神仏が何かの意思をこの竜火によって顕示するという意味で使われているのだろう。すると竜火とは、われわれこそ不遜にも化物扱いにしているが、神聖な霊験として考えられているようだ。上田行者は、何か経文のようなものを唱え、九字を切り、最後に、ええいっというレッパクの気合をかけた。
すると、ポツリ、見えた。たしかに火である。われわれより一間ばかり前方の空間に、ポカリと浮かんでいる蛍光色の火、大きさは十円銅貨ぐらいであろうか、正体は何にしろ、気合と同時に火があらわれたことはたしかだ。近づいて、ためつすかしつしても消えない。…
行者は、さらに奥の院へ行く途上、一、二度試み、帰りも、われわれが望む場所で、竜火を出してくれた。
(中略)
…十一時ごろであった。…三方の障子が、一時に、ガタガタと鳴りはじめたのである。誰か、外で障子のサンをつかんで力まかせにゆすっているという感じだった。とにかく両名、ふとんを蹴って起き上がり、さっと三方、障子を開け放った。とたんに音がやむ。誰もいない。…
 ややあって再び西側の障子が鳴った。…今度は東側が鳴動する。ゴウをにやして、ついに、三方の障子を開け放って寝た。月光が枕元までさしこんで、曲者の捜索にはさまで不自由はない。…こんどは、屋根の上で、シコでも踏むような鳴動が聞こえはじめた。濡れ縁までとび出て屋根を見上げたが、音は聞こえても形がない。…
「恐れいったな。一体、何だろう」

司馬遼太郎の「街道をゆく・洛北諸道」にこの寺についての記述があるそうです。
一般には石楠花の咲く寺として有名ですが、現在でも山伏の聖地であり、谷に数多くの行場がありますが、なまなかの修験者では怖くて近づけない山だそうです。
都から追いやられた妖怪変化たちの最後の砦ともいわれています。
京都最大の魔所とはいえ、その意味で知名度が高くないのはやはり、たやすく取材に応じないためなのでしょう。寺の境内では今でも数々の怪奇現象が起きるらしいですよ。
本によっては"京都最大の魔所"と紹介しながら、あえて寺の名前をふせてあったりします。
ですから、深泥ヶ池とか一連の心霊スポットととは同列に語れない、まったくレベルの異なる存在であることは間違いありません。相当なものらしいですが、普通に拝観はできたはずです。

司馬遼太郎の文章が妙に生々しくて記憶しておったのです。
記述によると、司馬遼太郎自身もこの寺で、様々な怪奇を体験しているようですね。
司馬は以前に、この怪奇について随筆を書いているらしいのですが、何という本だったか・・・
なお、志明院の記述については文庫本版の「街道をゆく4/郡上・白川街道、堺・紀州街道ほか」の洛北諸道の項、P23辺り
(以下、引用)
『雲ケ畑というのは洛北三里の山中にあり。一村は古来山仕事で生活している。志明院はかつては平安京の鎮護所の一つで、寺は勅願寺であった。明治後すたれ、廃寺同然になっていたのを、戦後Tさんが東京の寺から移住してきて特命住職になったのである。
志明院は明治以前は寺格が高く、庶民の賽を拒絶していたために今でも一般との縁が薄い。全山が境内で、峰やがけや谷に行場が多く、山伏だけがこの寺を訪ねるという時代が長かった。要するに山伏の聖地のひとつだが、その山伏でも、Tさんによれば、「よほど行力のある人でなければこの山はこわくて近づけない」ということだそうで、要するにえたいが知れぬ魑魅魍魎(ちみもうりょう)が棲息している、ということなのである。』

文芸春秋文庫「歴史と風土」にもそこそこ触れられてますね。
「昭和23年のなつでしたか、泊めてもらったんです。(中略)
夜中に山の峰の方から天狗の雅楽というのが聞こえてきたり、皆が寝静まった時分になると障子がガタガタいいだしたり、そんなことが八百年の間ずっと続いている。(中略)
一晩泊まってみると、なるほど本当にそうなるんですね。障子が鳴り出す。それも一枚や二枚でなしに、全部を外からつかんで動かしているみたいな感じなんですよ。」
(司馬遼太郎「歴史と風土」文春文庫P.161)

すごいですね、志明院の名前がすぐ出てくるなんて。
ある意味ここの名前出たらもう終了でしょう。志明院のことは本当に知られてませんから。
全ての魑魅魍魎が集まるとかの内容を紹介する時は、恐らく寺への配慮でしょうが名前はふせられることが多いようです。ですから実在しない幻の寺だと思われたりしています。
巷のオカルトとかすべてを超越した存在として扱われているのは事実のようです。
拝観料は300円だったと思います。この寺のことを知るのは本当に稀有だと思いますよ。

別に寺の存在自体が隠されてはいないので普通に検索はできます。
ただ、そういった平安時代から全ての魑魅魍魎が集まる京都最大の魔所云々が実はこの寺だということが、めったに表には出てこないということです。

京都地図とかで検索しても端っこに「岩屋不動」の記述がある程度で志明院という名称は出てこない。

噂があまり広がらない、というのも怪異の保存に役立つ。

池波正太郎も度々訪れていたようだ。
「池波正太郎と歩く京都」って本で此処が紹介されている。

釣りの随筆というか、釣り関係の紀行文筆家の山本素石も志明院に泊まる機会があり、怪事に遭遇したらしい。志明院付近の山道でも姿の見えない何かに付きまとわれた話が著書に載っている。
おそらく野生動物の悪戯だろうが、年を経たタチの悪い狸かもしれない。

雲ヶ畑は山本素石氏がホームグランドにされていたところでもあり、清滝川から薬師峠を越えて雲ヶ畑へ出るコースでの不可思議な体験談が氏の著書「渓流物語」の中の妖怪譚 1 志明院の怪で語られている

今日図書館に行って、志明院について文献をあたってみたところ、たった一つですが「志明院の怪」と題したエッセイを手に入れることができました。
残念ながら司馬遼太郎氏の随筆ではないのですが、かなり面白そうな内容なのです。
このエッセイの著者は、渓流釣り師で随筆家の山本素石さん。今も続くツチノコブームの火付け役としても知られていますが、先年惜しくも鬼籍に入られました。
山本さんは京都にお住まいで、加茂川の上流域でもよく釣りを楽しんでおられたようです。
そんな訳で雲ケ畑にも頻繁に足を運び、志明院の先代住職とも昵懇の仲だったようです。
さて前置きが長くなりましたが、ストーリーは、先代住職の田中良順さんが目撃した怪異を山本さんに語りかける形で展開していきます。詳しくは書きませんが、志明院で修行を積んでいた女性信者が、就寝中に妖怪らしき何ものかにイタズラをされるというやや艶めいた話です。山本さんらしい洒脱な文章で、多少コミカルなのですが、サラっと書かれている分、余計に気味が悪く感じられました。
尚、山本さんは本題に入る前に、司馬さんの書いたエッセイを引用しています。
怪異はどうやら境内ではなく、寺の茶室で起こるようです。
司馬さんはこの茶室に泊まり大変に恐ろしい体験をされたようで、このエッセイを単刀直入に「信じられないなら行って見よ!」と締めくくっているそうです。
さらに山本さん自身もこの茶室に泊まり、同様の怪異を体験されているとのことです。
なお「志明院の怪」は、筑摩書房「山本素石の本3/山釣り夜話」(1996年4月発行)に掲載されています。
それなりに有名な本ですので、大きな図書館にいけば必ず置いてあると思います。 また大きな本屋であれば、今でも購入できると思います。(2400円)

山本素石さんが司馬さんのエッセイを引用していると記しましたが、以下にその部分だけ・・・
(以下、引用)
司馬遼太郎氏が、この寺の茶室で泊めてもらったときの体験を書いている。
寝につくや、三方の障子が不意にガタガタと鳴りだして、とても寝ていられない。
地震でも突風でもないのに、障子だけが激しく音を立てて揺れるのである。
障子を開けて縁側に出てみると、誰もいない。小首をかしげて寝床に戻ると、また鳴りだす。
そのくり返しが続くので、たまらなくなって障子を開け放しておくと今度は屋根が鳴りだす。
小童が屋根に登って四股を踏んでいるように、ドスン・・・ドスン・・・と響くのである。
姿を見た人は誰もいない。司馬さんは、若い写真家と二人連れだったが、姿を見せぬ妖怪はついに一睡もさせてくれなかったという。「信じられないなら行って見よ」と司馬さんは書いているが、それはまさしく事実であって、同様の経験をした人は他にも大勢いる。
私もその一人だ。
私が泊まった夜は、障子は鳴らなかったが、寝ようとすると、枕元の障子がスーと開く。
誰かがのぞきに来たのかと思って、そちらに目を凝らしていると、また静かにスーと閉まる。
こわごわ這いだして行って、そっと障子を開けてみるが、誰もいない。
やれやれと思って床に入ると、またスーと開く。とても落ちついて眠れるものではなかった。
くたびれ果てて、うつらうつらしかけると、天井裏をミシッ、ミシッと歩き回る音がする。
「もう相手にせぬぞ」と思っていると、ドスーンと天井が鳴る。凄い音だ。
志明院の妖怪は、室町時代に記録された寺伝の古文書にも出ていて、昭和の戦後もまだ生き続けていたのである。
地元の雲ケ畑の人たちにとって、この寺に妖怪が棲んでいることは常識になっていたらしい

司馬さんの「随筆」には、この時の怪異がもっと詳しく書かれているようで、さらに志明院のみならず、岩屋山を含めた雲ケ畑全体の怪異についてまでも言及されているようです。

(司馬遼太郎「歴史の亡霊」より引用)
…私は洛北雲ケ畑の志明院という真言宗仁和寺派の山寺で、室町時代以来、出つづけているという妖怪に出会ったとき、たとえば平安京のむかしならば、禁中のとのいの部屋にも、公家の屋敷にも、ちまたの辻々出ていたもののけのたぐいが、しだいに人間の文化がひらけるにつれ、街から愛宕山へ逃げ、貴船へ逃げ、鞍馬へ逃げ、ついには、わずかに雲ケ畑の深山のひだで、かろうじて余生をたもっているという実感を受けた。

私がこの寺を知ったのは、「かくれ里」という本の、奈良本辰也氏の文章です。
物の怪の寺」と紹介され、司馬遼太郎が泊まった際「天狗の雅楽」を聞いたと書かれ、別の人が泊まった折は、境内は光り物が浮遊していた、とあり、大変興味を持ちました。
そして自分の足で行ってみて「やはり聖地だ。何か目に見えない『気』を感じる」と、惹きつけられました。
すっかり気に入り、バイクで何度も足を運んでいます。
ここより少し北に、1961年までは幻の峠とされていた石仏峠があり、昔、出雲族がこの峠を越えたという伝承があります。 雲ヶ畑の地名も、出雲族が移り住んだから、という説も有ります。 個人的には、この一帯と出雲族との関係をもっと知りたいです。 寺院なのになぜ境内に鳥居があるのか、とかも興味があります

竜火を出す行者の話(司馬氏目撃)と、行者たちが志明院の物の怪に行の最中に体をつかまれたりして恐れている、という話が秀逸

志明院では、宿泊した女性のカラダの上に、妖怪がのしかかってくるという隠微な話もある。しかし、ここでは(昼間なんだけど)女性限定で座禅会が秋にある。

ずいぶん以前(20年くらい前)京阪電車(大坂〜京都間を結ぶ私鉄)の無料配布のグラフ誌に雲ヶ畑志明院の紹介記事が掲載されていた。 やはり司馬さんの文章が引用されていたが、怪異が起きていた当時の 住職の話もあった。 それによると、ある年の夏、妙齢の女性が一晩志明院に宿泊した事があった。
夜半、その女性の枕元に一寸法師のような小さな侍が現れ、 針のような刀で、胸といい脚といい、ところかまわず刺しだした。 女性は堪りかね、胸をはだけ、裾をめくりあげ布団の上で のたうちまわっていた。  騒ぎを聞き駆けつけてきた住職は、あられもない女性の姿を見て「これは物の怪の仕業である」と印を結び、喝を入れ女性を目覚めさせた ということです。    
雲ヶ畑志明院の出来事は、なにやら御伽草子の世界のようです。

司馬遼太郎さんが、その後の志明院について対談「時代の風音」で『(田中良順住職から)昭和27年に手紙が来まして、「この頃出なくなりました。電線を引いて寺に電気がついてからもう現れなくなりましたが、京都の平安時代にいた物の怪が集まっていると思うのです」』ということで、今は、派手にでないみたいです。

電気がついていなくなったというのが哀れを誘うな

妖怪は本当にいる。でも、人間が 乱開発しちゃったから、青色吐息。
それと、人間に目撃されると 移住するらしい。何だか 可愛くて せつないね

妖怪もいまや志明院付近にしか住めないなんてかわいそうに。

文明は妖怪の天敵。水木しげるも嘆いているにちがいない。
さみしいね。どこに行っちゃったんだろう。

志明院の暗がりを好んでいた妖怪さんたちは、電気がついたのを見て落胆、あるいは眩しい光に圧倒され、もっと山の奥のほうへと去っていった、ということであろうか…

志明院のご住職、田中真澄(たなか しんちょう)さんは、大変あかるく気さくな、ぱっと見は「アウトドアなおじさん」です。水問題に詳しく、水環境に関する講演会ではよく発言者として招かれています。
志明院にもちゃんとした信心と、水や環境を尊ぶ志をもって参拝し、丁寧にお願 いしたらいろいろお話をうかがうことはどなたにもできるんじゃないでしょうか?初夏のころは石楠花がとても美しいお寺ですよ。

もう随分むかしのことですが、このお寺の傍の鴨川源流付近に遊びにいって、川っぷちでぼーっと景色を眺めていたら不思議な体験をしたことがあります。
いいお天気で青空も広がり日差しも明るいお昼ちょっと前くらいの時間、音もなく細い雨のようなものが降ってきました。見た目には細かい雨、なのですが、どこも濡れていないし冷たくもない。なにがふっているんだろう?と思いつつその様子を眺めていると、川や石が光りだし、あ、まぶしい!と思ったとたんにまたもとの景色。
山の木々がザワザワと、ちょっとずつ間隔をおいて、うまく表現できないのですが、何かが木々をつぎつぎに飛びうつって移動していくようなゆれ方をしました。不心得ものの私はその現象に接してもぼけーっとしてたのですが。

電気の通った今は昔ほどのものすごい奇怪な体験談はなくなったというが、それでも真夜中にあのあたりを道でドライブしてみたら大入道や飛頭蛮(ろくろ首の原型)といった妖怪を目撃した話もある。

大浦龍宇一さんの話しが面白かったよ。京都の雲ヶ畑って所に妖怪がいるらしい
大入道やろくろ首や半透明のお坊さんとか 普通にいるらしいよ
京都の北の山奥らしいけど バスが来年の4月で廃止になるらしいからそれまでに見に行こうかな…
調べたら志明院と厳島神社の周辺みたい。出雲系の人の集落みたいだし厳島神社の神様も守護があるし 昼間に行けば大丈夫かな

内容はおかっぱ頭で水に濡れた女の子がいた、カーブに差し掛かるとガードレールから血まみれの手が出ていた、滝に打たれる僧侶が見えたが、半透明でスケルトン状態だった、木の上に子供を抱いたお母さんが座っていた、お堂が目前となったあたりで「ろくろ首」を目撃した、お堂の横に大木が立っていたが、その大木と同じほどの高さの「一つ目の大入道があぐらをかいていた…でも話しても誰も信じてくれない。大入道だけは仲間5人全員が見た。

(以下、引用)
「これホントに誰に話してもホントに信じてもらえないんですけど、ホントの話を今からしたいと思うんですけど。僕が17くらいのときなんですけど、生まれが京都でして、京都っていうのは昔から妖怪がいたりなんかして、いろんなことがありますけど、妖怪がいて退治して閉じ込めたっていうお堂があるんです。
そこにお化けドライブに行こうって行った時に妖怪を見たんですよ、ホントに。ろくろ首とか大入道とか、実際にいたんですよ。はじめてみた若いころの話なんですけどね、先輩の車に乗りまして後ろのほうに乗りまして、全員で5人いたんですけども、夜中の2時に雲ケ畑というお堂を目指して車で行きましたら、一番最初に見たものが、車30キロぐらいだったんですけど、ほっと見たらおかっぱの着物を着た水にぬれた女の子が普通に歩いてたんですよ。
そんなわけないよってもう1回見たらいなかったんですね、『あれ?』って車何キロで走ってんだろう?見たら30キロとか35キロぐらいで走ってるんですよ、とろとろと走りながら、まさかそんな速度で走ってるわけないだろうってぐるって見たら、また水に濡れたおかっぱの女の子が見たところが始まりなんですよ。そこからカーブのところのガードレールから手が出てて、血がついたてが出てるわけですよ」
全員見てるの?「最初のうちは2人とか3人とかぐらいで、その先に行きますと、お堂に向かって行く道なんですけど、その先に行くと、滝があって滝で水浴びをしてるお坊さんとか、半透明なスケルトンな状態なんですよね。
その先に行きますと木があって、子供を抱いたお母さんがいたりするんです。これはすごいなんて思ってるときにろくろ首出会うんですけど、体がここにあって、首がなくてですね、顔だけが浮遊してるんですよ。後になって誰も信じてくれないから調べてんですけど、ろくろ首っていうのは、元々首が伸びてるんじゃなくて浮遊してるさまを絵に描いて首が伸びてる状態。
それがお堂の最後に行きましたら、お堂の横に大木がどーんとあるわけですね、その大木の横に大入道っていうのがですね、胡坐を書きまして、座高が大木分ぐらいあるという目がひとつだったんですよね、胴着みたいなのを着てた気がするんですよね。
今から思えなみんながそっから車で降りたということは、5人とも見たんですよ。近づいてみようと思ったんでしょうかね、テンションがあがってますから、こちらのほうに歩くとですね、その大入道の目がですね、目だけがぎゅーって動きまして、『出たー!!』ということで、みんなで車に戻って、そのままみんなで『逃げろー!!』って言って逃げてきまして」

調べてみたら京都市北区雲ケ畑出谷町から北に行った山奥の地域だね
大森稲荷と鞍馬山の間の中間地点に成る。多分、気の流れからすると薬師峠と魚谷峠の間の中間地点辺りの山の中かと!京都京北線道路の終点地域と見た。夏場は川のせせらぎとセミの鳴き声が響き、秋は紅葉で冬場は雪深く人の入山を拒む。

元々、雲ヶ畑まで続く山道は色々幽霊話が噂されている。自分もお爺さんの霊と遭遇した。
いやその道がバスが走る狭い酷道である方が怖いが。

高校の同級生で雲ヶ畑から来てた奴があの道は霊が出るって言ってたよ。 
バスが無くなると家の人が車で迎えに来てくれるんだが、夜は嫌がるって言ってたわ。 
俺は対向車が来ると離合しにくいから嫌だったけどね。

雲ヶ畑は昔から土葬しちゃいけなかったって、幼い頃に爺ちゃんに聞いた。山の水が御所に流れるから、という理由で。隣村は50年くらい前まで土葬だったのに、珍しく火葬をしてたらしいよ。

雲ケ畑の持越峠の名前の由来もそうだよね。
雲ヶ畑に死体を埋葬できないから、死体を隣村の真弓って村に持ち越したとかなんとか。
洛北はこういう話が多い土地だな…妖怪が出ても不思議じゃない

志明院にでるのは、霊というよりも本当に魑魅魍魎って感じなんですね。
妖怪たちの最後の砦といわれているだけのことがあります。

妖怪が棲んでるのが常識の寺というのは、やっぱり他とは別格ですな。

ここにはトトロの真っ黒く露助のモデルとなった妖怪がいる
詳しくは司馬遼太郎と宮崎駿の対談集を読め

司馬遼太郎と宮崎駿の対談だったかなんだったか、物の怪は暗いところに現れ、夜でも明るい現代では物の怪の出番がない、と読んだことがある。司馬遼太郎が一生懸命「宮崎さん、物の怪の話作ってよ」と言ってた

対談集で面白いと思ったのは、司馬遼太郎が宮崎駿に、「物の怪を扱ったアニメーションを作って欲しい」と提案していることです。この司馬遼太郎の提案は、後の『もののけ姫』に通じていること間違いなしです。

堀田善衛氏、司馬遼太郎氏、宮崎駿氏の鼎談の内容を収めた『時代の風音』の中で、司馬さんは宮崎さんに「宮崎さんに一つ作ってほしいテーマがあるのですが。平安時代の京の闇に棲んでいたもの物の怪のことです。・・・・・典雅で、もののあわれと哄笑が同時にあって、人間への大きな批判をこめた平安朝の物の怪は、アニメーションにならないでしょうか。」と話している。このリクエストに応えて、宮崎監督は『もののけ姫』を創ったのかどうかは知らないが。

司馬遼太郎さんがこちらに泊まられた折の摩訶不思議な体験を宮崎駿監督に話したところから、あの名作『もののけ姫』が生まれた山門を通り過ぎると京都なのに、まるで屋久島にいるような感覚に陥る。

ちなみに司馬、宮崎、堀田が鼎談した場所がこの「志明院」である

宗教記者であった48年夏、25歳の司馬遼太郎は京都北西の山中、まさに深山幽谷というべき地にある志明院(しみょういん)という真言の寺を訪ねたことがあった。「もののけ」が出るとされたその寺で、彼は実際もののけのしわざを体験したのだ、とさらっと語っている。もののけは、年ごとに明るさを増す俗界の夜に耐えがたく、ここまで逃げてきたものらしいと語ったあと、つぎのようにつづけた。
「結局、私自身にもそういった雑密(ぞうみつ)的原始感情に感応するところがあるからでしょうね」「根っこのところでは日本人が伝統的にもっている暗くて華やかなロマンチシズムのようなものにもつながっているのではないでしょうか」(「密教世界の誘惑」『司馬遼太郎全集』第12巻月報27)
 こんなセンスが、一連の不思議な傑作短篇を生んだのである。そしてまた、「電気のない闇というもののすばらしさを、宮崎さんのアニメでひとつ表現していただきたいものですな。(宮崎駿、堀田善衞との鼎談)

<宮崎駿 風の帰る場所 日の当らない日本史より引用>p157~159より
Q:で、今回の『もののけ姫』なんですけど、司馬遼太郎さんとの対談の中で、司馬さんが「もののけで映画を作ってくれませんか」と言っていますが、それが、宮崎さんの中で動機付けの一つとしてありましたか?
A:いや、ないですね・・・・そういう率直な人間じゃないですから。このモティーフはもっと前からあったんです。

宮崎駿は否定しているがもののけ姫を一番観てほしかった人物は司馬遼太郎だと答えている

もののけ姫は宮崎監督の個人的な「司馬遼太郎追悼作品」でもあったのだろう。

志明院は結構、雰囲気あるね。
数年前、親戚の子が大学の受験に来た折に迎えに行って時間潰しに足を運んだんだけど
川沿い小滝の合間合間にある祠で手を合わせてると、全く零感といっていい俺にも読経が聞こえるんだよ、ちと怖かった。

そういえば霊感強い友達と志明院に行った時ごつごつした祠みたいな所には足を踏み入れようとしなかったな。良い悪いとかそういうんじゃなくてとにかく力が強すぎて入れないって言ってた。

安部清明がつきとめた魑魅魍魎の集まる場所は寺じゃなくて塚だったような気がする。

此処の楼門の扁額は小野道風の筆と云われているから、あながち陰陽師とも繋がっているような…。

修験場であるだけに自然の豊かなところですよね。

結構いい所みたいだね。歳とって隠居したら住んでみたいや。

Yuki saito監督の映画「古都」で時間は短いけど志明院が登場してるよ。
インタビューに京都で一番思い入れのある場所が此処だって答えてた。

メディアに出ることが稀な寺院なのに映画とは貴重だな

映画ヒットしたら有名になりそうで…それはそれで残念だ

密教と修験道に関わりのあるお寺でしたかね。霊的パワーが凄いとの噂も聞いてますし行ってみたいんですよ。
昨晩深夜、蛍探しの延長で雲ヶ畑まで足を伸ばしましたが当然夜なので入れず。
厳島神社の鳥居横の杉が素晴らしく、近くの惟喬神社も雰囲気良。
ただこの辺シカが多いのか3回も遭遇。一頭は道を塞いでなかなかのいてくれなくて困りました…。

志明院は管理人さんがいっしょに住んでらっしゃるので夜入るのは無理なようです。
かなり神々しい感じ、空気が湿気を含み重く冷たい気がする…一度ご参拝をオススメします。
僕が参拝したときはイノシシの子供が二度程出ました。

昼間に岩屋山志明院行ってきました。
おどろおどろしいところを想像していましたが、結構普通で何か拍子抜けしました。
住職さんも、気のいい人って感じでした。でも、一見の価値はあると思います。

志明院は木立が鬱蒼としてて天気が良くても日光が届かないからおどろおどろしい雰囲気はあるけど、入り口で住職の奥さんの話きいてたら思いっきり俗世界に引き戻される

私も行って来た。怖いというよりは何か弘法大師ゆかりの地だけあって神々しかったです。
マイナスイオン出まくりで癒されてきました、湧き水も美味しかったです。

ここ学生の頃に何回か行ったよ。
賀茂川を遡ってどこまで行けるかって意味もなくドライブしてたら辿り着いた。昼間しか行ってないけど全然恐い感じはしなかった。

司馬遼太郎氏がザシキワラシのような怪異を体験された茶室とおぼしき部屋。
同じく司馬氏が火の玉をまのあたりにしたという「飛竜ノ滝」。
そして、鳴滝上人が龍神を閉じ込め京都の町に大干魃を招いたといわれる「護摩洞窟」一般拝観者に許される範囲のものを全て見てきました。
護摩洞窟の上流は岩が両岸から迫った険しい谷になっていて、その奥の方に滝が落ちているのがかすかに確認できました。あのあたりが修験場なのでしょうか? 
好奇心にかられ、立入禁止の札を無視し先に進もうかとも思いましたが、思い留まりました
そもそもここは敬虔な山岳信仰の地なのですし、何よりも、周囲のただならぬ雰囲気に私自身が恐れをなしてしまったというのが、正直なところです。
なお、地図上には何故か「志明院」の記名はなく「岩屋不動」と記されています。
恐らく、興味本位で来て欲しくはないということなんでしょうね・・・。

お寺では年配の女性が出てきて対応して下さったのですが第一声が「なんで来はったん?」だったのには面食らいました。
その著書で司馬遼太郎サンが通っていたお寺だと知り興味を持った事。更に、ここにはその頃まだ魔が棲んでいたと記されていてどんな場所か見てみたかった事も告げると色々話して下さいました。
当時バス停は3kmも下方にあり司馬サンは明かりを灯す為のバッテリーを持って登って来られた事、電灯や生活音に囲まれた街中では感じない事をここでは感じ取れるのだという事、それは夜に書き物をしていて屋根の上にドングリが落ちるだけでも物の怪の気配だと感じるようなものだという事……。
話のあと「なんにもありませんけどまぁ見て行って下さい」と促されました。
「あんまり奥へ行ったら帰って来られへんようなるから気ぃ付けてなァ」という事も付け加えて。

志明院でお化けとか出るんですかと聞いたら
出るのは物の怪だけだよ、そして物の怪は人でない物の気配という意味。街から離れ、人のいないこの場所では風の音、木々の音、水の音、動物の気配がごく身近に感じられる。」みたいな感じの事を言われた

岩屋山志明院に行ってみたいのですが、バスが一日2本。
しかも、下車後徒歩30分と聞いて、どうしたらと迷ってます。
もし車の場合、寺の近くまで行けるのでしょうか?

小さいですが駐車場はありました。参拝料¥300払えば止めさせて貰えると思います。
只、途中に中間産廃処理施設とか工事現場があって、ただでさえ狭い道に頻繁にダンプが走っているみたいなので、結構神経疲れるかもしれません。
ちなみに、境内(山門より奥)は写真撮影禁止ってことになってます。
使い捨てカメラを持参していたのですが、住職さんに「お預けしたほうがいいですか?」と聞いてみたところ「記念写真程度のものだったら構いません。でも仏像とかをモロに写さないで下さいね」と言われました。

志明院の現住職さんは、とっても気さくで愉快な方です。
行政を向こうに回してダム反対運動を闘った方ですが、この方も本を出しておられます。
もちろんオカルトじゃなくて、ダム反対の闘争をつづったもの。でも、この本でも明確に語られてはいませんが、どうしてもどうしても和尚が守りたかったのは、自然環境だけではなかったのだろうな、ということがそこはかとなく感じられます。
京都には住民運動で果敢に闘うお寺さんがいくつかありまして、嵯峨野の常寂光寺もその一つです。もちろんここもただごとでない何かしらが起こるところです。

昔、鴨川の源流を探しに雲ヶ畑の奥まで探検に行ったんだけど、その時はあんな所に寺があるって気がつかなった。立派なお寺らしいけど、京都の人でも知ってる人少ないんじゃないかな

最大の問題はアクセスです。京都市内から京都バスが1日4回程往復しますが、出町柳駅から朝8時半のバスに乗ると、帰りは夕方5時雲ヶ畑岩屋山発のバスまで有りません。
山奥で6時間近く時間をつぶすのはかなり苦痛だと思いますので(8時半の後は午後3時半発までバスは無いです・・これではもちろんお寺は閉まっています)路線バスを使うなら早朝6時過ぎ高野車庫発の臨時バスで来て、朝9時半雲ヶ畑発で戻るのが一番です(お寺は朝7時から開いています。
※現在、バスは廃止

付近に喫茶店や飲食店はない。飲食物持込不可。

そこで「桃太郎電鉄」で登場した「白味噌猪鍋屋」のモデルにもなった宿料理旅館「洛雲荘(らくうんそう)」で休憩ですよ。

数年前に志明院に遊びに行ったけど、あそこってカメラ持込禁止なんだね。
山門前で供出さされてお預かりされちゃった。
川沿いにいくつかある祠(無人)をお参りしてたら読経が聞こえてきたのには少し恐怖したよ。
行くならレンタカー借りるのがお勧めかな、京都駅からなら40分強程度かな?

志明院って原付で行けますか?

毎日バスが二往復している場所だから、楽勝行けると思う。ただ、間違っても鷹ヶ峰方面経由で行かないように。上賀茂神社方面から行かないと、道中危険だ。

あの地域は豪雪地帯だから、めちゃくちゃ寒いよ!

ここは京都言えども魔界って感じがする
気軽に行ける場所でもないからリピーターになる人って相当な魔界好きやと思いますね。

志明院に行くまでの道にお札が20枚くらい張り付けてある倉庫かなにか発見。
出合橋までいかないからね。建設現場の作業場の真向かいにあるからね。

俺も先日それ見た。
山側の建物かなんかのトタンでできた門に貼りたくってあった。
山に入って上り始めらへんだよね。

そうそう あれらのお札に効果あるかわからないが、奇妙だよね。
あんなに貼る必要ないのにはってる時点で・・・。

10年以上前の話ですが雲ケ畑に行く途中の鴨川沿いの道を早朝4時過ぎに車で走っていたら上流から上半身裸でモリを持ちながら自転車を押して歩いてくるおっさんに遭遇した事があります。 あれはびっくりってゆーか、怖かったですね。

京都の北端の三国岳の奥地には、不動明王や役の行者を祀った岩屋が3つあるというので、いつか装備万端で訪れたいのです。が、体力がどうも・・。

『雲ケ畑という妖怪部落』
(※『旅』昭和36年10月号(日本交通公社発行、現JTB)から引用
洛北は、王朝人にとっては、鬼のすむ所であった。
鬼をおさえるために、叡山、鞍馬山の二大宗教都市ができた。
北、というのは暗い。しかも洛北は、山が重畳としている。山をこえ、谷をわたったむこうには鬼や物の怪(もののけ)がすむのだろうという幻想は、王朝人のたれしもがもったおそれだった。だから、王朝人の末裔であるいまの京都人にもそれがうけつがれ、洛北の八瀬、修学院、貴船、鞍馬山麓、一乗寺などはあれほど風景のいい所でありながら、いまだに地価がやすく、住宅地として発展しない。
洛北山麓のモノノケというのは、王朝時代は、京のチマタや御所、公卿の屋敷、青侍の殿居の部屋、女官のお局や僧院の林泉のかげなどにさかんに出没し、王朝文学は、モノノケの文学であるとさえ、いえるほどに、かれらは跳梁した
しかし、時がたち、人が強くなり、夜の灯火がふえるにしたがって、モノノケの数もしだいに減ってきて、こんにちのように電灯が京の闇を吹きはらっているような時節になると、とんとかれらはあらわれなくなった
かれらは、時代が移るとともに京の周辺の山々に逃げた愛宕山でモノノケの存在が騒がれたことは鎌倉の末期であり、貴船でモノノケ話がさかんに出たのは、室町の末期である。かれらは転々として居所をかえ、住みづらくなれば集団で他へ移った。しかしかれらは、ほろびたのではない。世に遠慮し人を怖れてはいるが、わずかながらも寄り添って生きのびている場所がある。
そこが、洛北雲ケ畑である
あほかいな、という人があれば、まず行ってみることだ。モノノケのはなしなど、いくら聞かされても、それを自分の目や耳でたしかめないかぎり、ほんとうにはしないはずだからである。
行く方法は、京都の市街地の北のはしに「植物園前」というバスの停留所がある。
そこから雲ケ畑行のバスが、日に二回出ている。夕方の便が、午後四時だったと思うがたしかでない。
とにかく夕方の便に乗って、約四十分、行程は三里、北へのぼる。途中、渓谷の上の道ばかりで、ふと、たったいままで京都の市中にいたことをわすれてしまう。
雲ケ畑は、キコリの村で、山の中腹にありバスをおりてから山道を四十分ばかり歩かねばならない。
突如、あなたは、森に入りこんでしまうだろう。その森の中に、鎌倉の武家屋敷をおもわせる建物をみつけるはずだ。そこが真言宗仁和寺派の末寺志明院である。
志明院は、はるかな古代に噴火した死火山の噴火口の中にある。周囲の山壁にはシャクナゲが密生し、その季節になればむせるような匂いがする。
奈良朝よりすこし前に役ノ行者という人物があらわれて、日本に修験道という山岳宗教をひらいた。いまの山伏の元祖である。
役ノ行者はいまの奈良県の出身者だから、修験者たちの古い行場は関西に多く、最高を大和大峰山としている。私は十年ほど前に、志明院でひとりの老行者に会ったが、かれは諸国の行場のなかでここがいちばんおそろしい、と語っていた。「つまり、ここの山中で行をしていると、妙なことがいっぱいあるのです。だから、なまはんかな行者は、ここへは来たがらないのです」
むかし、京のチマタで出没していたモノノケどもが、ついにこの山中で、ひっそりと寄りそって余生を送っているという感じだった。
私が最初に志明院をたずねたのは、昭和二十三年の夏で、若い写真記者と同行した。
住職は田中良玄という初老のひとで、東京から特命住職として赴任してきたばかりのひとだった。家族はまだ、到着しておらず、住職ひとりが広い寺域で住んでいた。
「ここのモノノケは、室町時代の寺伝の古文書にもかかれていて、ずいぶん古い連中なんですよ。いや、べつにこわくはありませんが、やかましくてねむれない夜があります」
われわれは、本坊の上のガケに鳥の巣のようにかけてある茶室にとめてもらった。茶室と本坊とは、急勾配の回廊で連結されており茶室のぬれ縁から見下すと、本坊の銅ガワラブキの屋根が、近々とみえた。
なるほど、やかましかった。床に入ったのは午後十一時すぎだったが、不意に、三方の紙障子が、ガタガタと鳴りだしたのだ。あわてて障子をあけ、ぬれ縁へ出てみたが、たれもいない
中へ入ると、また鳴るのである。やりきれなくなって障子をあけっぱなしにしておくと、こんどは茶室の屋根へのぼったらしい。七、八貫の小児がシコをふむような音をたてはじめたのである。
「これはねむれん」
われわれは、とうとう、ぬれ縁へ腰を下ろしていると、下の本坊の窓から住職が顔をのぞかせて、「お気の毒ですな。しかしこれは仕様がないんですよ」
そのうち茶室の屋根に居た「物音」が、スーッと滑空するような感じで本坊の銅ガワラブキの屋根にうつり、ドスン、ドスンと踊るような音をたてはじめた
十四日の月明だから、あたりはよくみえるし、本坊の屋根になにもいないことは、ひとめでわかる。そのくせ、物音だけが踊っているのである。
このほか、この山で「竜火」とよばれている発光体があり、夜、行場への山道をゆくと眼のさき一尺ばかりの空間に、一円アルミ貨ほどの大きさの蛍光色のものが浮かぶ。うかんで、ゆらゆらと動いている。三丁もゆくあいだに、それをいくつかみた。
田中良玄さんの話では、「天狗の雅楽」というものもあるそうだ。私はここ十五年のあいだに数度避暑がてらにこの山に行ったが、いちどもきかなかった。
週に一度ほど、夜の十二時前になると、山上の百年松のあたりから雅楽風のものがきこえてくるそうで、ふもとの雲ケ畑の人達は、子供のころから聞きなじんでいるという。まあ、そんなところだ。妖怪のすきなひとは、いちど探勝にでかけるがよい。寺は、いつでも泊めてくれる。※現在宿坊はやっていない

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