実は恐い怖い京都の裏観光情報!

鬼門、魔界、結界、陰陽師、幽霊絵馬、縁結び、悪縁切り、パワースポット…。夜の古都を歩くは鬼か物の怪か・・・魔都「京都」の情報

カテゴリ: 世界文化遺産

征夷大将軍を祀る蝦夷成敗的な価値観、日本の中心「京都を代表」する寺

清水の舞台に行くときは、ピンヒールとかミュールとか履いて来ないでね。
床に窪みが出来て、そこに水が溜まって腐りが早くなるから。

NHKテレビの清水寺特集では、清水寺の奥ノ院の右側奥に鎮座します夜叉神は、夜な夜な京洛を飛び回って悪霊が跋扈しないか偵察しているそうな。京都の夜って賑やかなんだね。

清水寺舞台の横にある拝殿の、 向かって右隅に夜叉神像を祭ったお堂があります。
夜叉神は、清水の観音様の指令により、 毎晩、深夜になるとお堂を抜け出して 洛中を見回り、悪鬼悪霊が都にはいってこないよう 警邏しています。清水さんへ行ったら、 夜叉神にお参りして労を労うのも良いでしょう。

清水寺の参道に三年坂(産寧坂)という坂があり「三年坂で転ぶと三年で死ぬという伝説」がある。
「坂の上の清水にある子安観音に「お産が寧か(やすらか)でありますように」と祈願するために通る坂」であることから、安産祈願の妊婦が転ばないようにと注意を促す話だとガイドから聞いた。

むかーし、修学旅行の時に転ばないように慎重に歩いたことを思い出しますわ。

三年坂は修学旅行で京都行ったとき通った。もし転んだらそのとき履いてる履き物捨てるってきいた。
あ、でも三年坂で教えてくれた人って誰だろう…聞いてたの俺しかいない。女の人だった。

清水寺内にある地主神社は縁結びの神として有名だが、同時に縁切り呪詛にもしばしば利用され、境内奥の古木には無数の釘穴が開いている

丑の刻参りは地主神社でも行われていたとか。
おかげ明神という祠の裏にある「いのり杉」大木に釘を打ちつけた穴が無数にあいてるそうです

京都の清水寺の中にある「地主神社」
縁結びで有名なので修学旅行生等でにぎわうが、丑の刻参りの痕跡のある木がある
また、病気等の払いたい厄の名を人型の和紙に書きこんで水に溶かす厄祓いがある。

小銭がよく挟まってる大きな大木があって、5年ほど前だったかな?に、切り倒したところ昔の釘だらけだったらしいです。舞台の上の神社は恋愛成就で有名ですが呪いでも有名です。
昔から呪いのメッカなのかも・・・。

あそこは恋の神様で有名な地主神社があるだけに、すごく意外でした。

清水寺の横にある『地主神社』
あの一番奥にある水かけ地蔵はあの中でも一番徳があり、力を持っているそうです。
お参りするやり方みたいなものがあるそうですが、心を込めてお参りすると良いですよ。
恋愛に悩む方は、行く機会があれば一度、お参りに行ってみてはいかがですか?

大学時代の話。気持ち悪い先輩に、しきりに地主神社に行こうと誘われた。
第一印象から気持ち悪かったのでもちろん断った。
後で聞くとこの先輩は女子をだれかれなく無差別に地主神社に誘う人で有名だそうだ。
卒業した今でも語り継がれている。もっとも成功したことはないようだ。 

「恋占いの石」があるよね。
あの石は原子物理学者の研究結果で、縄文時代の遺物であることが証明されたんだよ。

清水寺の舞台から見える子安塔、ちょっと気になってそばまで行ってみたんだけどなんかめちゃくちゃ怖くて塔の30メートル手前位まで行って、逃げる様に引き返してきたけどあそこって、なんか謂われあるの?昼なのにやたら怖かった。

あの辺は鳥辺野っていう風葬地だったからね。
ザワザワして落ち着かない、って人もいるみたい。

風葬地ってなに?

火葬ってのは焼くでしょ。土葬は土に埋める。風葬は野ざらしにすること。つまり、死体を野ざらしにしていた土地ってこと。

その昔(平安時代頃)人が(身分の高い人以外が)死ぬと決まった場所に打ち捨て、カラスとか鳥類・虫が屍肉を食い尽くされるままに放置しました。 これを風葬または鳥葬と言います。

この地は昔、人が亡くなるとその死体が捨てられる野原だった。それをついばもうと鳥たちが集まったから「鳥辺野」と呼ばれた。

清水寺のあたりは、鳥辺野という葬送地だった。
葬られた人を供養するのに建立されたのが清水寺の始まり。かつては、死体が累々と重なり骸骨が散らばっていたからな。特に舞台の下や子安塔のあたりはゾクッとする。

清水寺の周辺は昔は葬送の場所だった。
そういえば聞こえがいいが、要するに死体の捨て場所で元々曰わくつきの場所なんだよ。

清水寺のあたり一帯はもともと京都の死体処理場だよ。
近くの六波羅は轆原だし、身元不明の死体は清水の舞台から投げ捨てていた。だから、寺が多い。祇園が近くにあるのは悪所をひとまとめにしたから。東京の浅草と同じ。

清水寺の周辺一帯は平安以前から墓所として使用されていました(そのため大昔は妖怪や物の怪が出まくり 現代でも怪談が絶えない) 
毛朱一竹塚・・・平清盛が天皇を悩ます妖魔を狩り、塚を作って封じ込めたところ。清水寺の近くで源頼政が退治した鵺もここに埋められている。

昔は清水の舞台から死体を捨てていて、あの高さは腐臭が上までとどかないようにする為だった。音羽の滝辺りは町人の死体の山でエラいことになっていたと云う。
ま、これは都市伝説の類かもしれんが事実としては、元禄年間から飛び降り禁止令が発布された明治初期までの間に約240人もの飛び降り自殺があったらしい。

清水の舞台から飛び降りる』つうのは「死ぬ気で」とかいう意味じゃなく、願掛けの意味合い。昔から「飛び降りても生きていたら願いが叶う」という噂(信仰?都市伝説?)があって飛び降りる人が後を絶たなかったとか。勿論、亡くなる人もいたけれど、結構生きていたらしい。

清水のふもとの鳥辺山には、人食い化け物の出る谷って言われる場所もあったそうだ(羅刹谷)

平安の昔の野晒しが標準の頃から使われているため、現在の地層の下には物凄い量の人骨が埋まりさらに今でも、連絡の絶えた古い無縁仏は片っ端から撤去して一箇所にまとめて埋葬。
その跡にまた新しい墓をバカスカ建てるということを繰り返しているため・・・あの辺の地層は凄まじい事になってます。

清水坂は、つい昨年、道沿いのマンション建設のためにちょっと深く掘り返したら、200体分か何かの人骨が出てきてしまって大騒ぎになったよね。
お参りの人はあまり行かないだろうけど、清水寺でも北に面したあたりには千体地蔵だの石塔婆だのが露出している場所もあり、あきらかに「そういう」用途に使われていた場所だったと思われ…。「音羽の滝」も流水灌頂(今でいう塔婆流しみたいなもの)に使われていたという話もあるし…。

清水寺の裏手から将軍塚へと通じるハイキングコースがあるんだが、途中の休憩所には着物姿の女が出るらしい。鈴の音を聞いたってのもある。営林所の人間とかが何度か目撃してて、地元では結構有名。昼でも独特の雰囲気があって、噂知らない奴でも引くと思う。
同じく知恩院へと通じてる道もあるんだが、知恩院へ向かう途中から出てる獣道。4~5年前に首吊りがあって以来、出ると言われてる。ちなみに、烏がやたら多い。

清水寺って、なぜか大好きで京都を訪れる際には必ず立ち寄るのですが、舞台の下なんか嫌な雰囲気あっても良さそうなトコなのに、その辺は嫌感無くて音羽の滝の先の売店(のような物があった様な気がする)を抜けてすぐのトコから空気が一変する感じがしました。舞台から見て気になって見に行こうと思い、下の売店付近にいたおっちゃんに「この先にある塔を見に行くといいよ」と言われ、導かれるように塔の傍まで行ったんだけど怖くて近寄れなかった。
京都とは縁もゆかりも無い私ですが、もしかしたら前世は鳥野辺に葬られ鴉に目玉をついばまれたりしてたのかなあ?なんて思ったりして。

実家に帰ったついでに関東の友人を連れてきたから市内を案内した時のことなんだが・・・。
清水寺に行きたいと言うから人混みを避けて五条から鳥辺山通って清水坂に合流した。
友人曰く寒気がして鳥肌が終始立ちまくやばいやばいと連呼してたんだがそんなに怖いかな。
観光客も滅多に来ないし妙見堂あたりはぬこがたくさんいて昔から好きなんだよね。
たしかに今は焼き場の近くだし平安時代は葬送の地で有名だけど霊感とは全く無縁だからそこまでやばいと感じたことはないわけで・・・。

京都市東山区清水1丁目294

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比叡山延暦寺

最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。
大乗戒壇設立後の比叡山は、日本仏教史に残る数々の名僧を輩出した。
「12年籠山行」「千日回峯行」などの厳しい修行が現代まで続けられている。

寒くなる前に一度、延暦寺に行きたいと思ってる。あそこは結界なんだよね。
京都?を守るために鬼?に身を落とした偉い人が祀ってあるとか聞いたが。

比叡山には、一つ目小僧の絵が入り口の上に飾ってある庵があるね。
修行をサボる僧を一つ目小僧に変身した高僧が脅かして追い出したという。
今でも、その一つ目小僧は深夜の比叡山を徘徊しているのだと比叡山の僧から話を聞きました。
一つ目小僧の額は退色していますがよく見るとみえますよ。

東塔エリアならば目指すは総持坊。ここに掲げられる額には一つ目一本足の僧が描かれています。
この僧が慈仁和尚。 自ら魔道に落ち怪異な姿となり不心得の修行僧を戒めたと 伝えられています。

千日回峰を実践しているアジャリさんは、毎晩、けもの道を使いお堂や金堂を歩いて修行されるけど、暗闇の中、なにか不思議なものに見つめられてるのを感じるそうだ。
実際、不思議な経験をした阿闍梨さんもたくさんいるみたい。

阿闍梨(あじゃり)
密教においては大日如来等の諸仏を指すことがあるが、一般には衆僧の模範となるべき高位の僧侶の称号で日本では天台宗および真言宗において高貴な身分の僧や天皇の関わる儀式において修法を行う僧に特に与えられる職位である。

千日回峰のことを、わかりやすく説明した本で書いてあったのですが、アジャリさんが、提灯を持って闇の中を歩いてると後ろから提灯だけが、すごい速さでとおり抜けて行ったとか、石段に座ってる人を見たとか、他にも代々のアジャリさんは、なにかしら経験をされているみたい。

比叡山で修行した者だが、夜中の獣道で出くわした人間が一番怖い

最澄の遺骸が安置されている浄土院は、天台宗の聖地とされていて、アジャリさんが最も緊張する場所らしいよ。ここには、物の怪じゃないなにかが確実にいるかもね。聖的な気がみなぎってそうだ。

浄土院での坊さんのおつとめは、毎日、主のごはんを作り、床を拭いて、庭の掃除を何年間かするみたい。その間、山から降りれなくて、テレビ、ラジオ、新聞は見れずひたすら主のお世話をするらしい。
主の聖地だから掃除は徹底してて、塵ひとつのこしてはだめらしいよ。

魑魅魍魎が閉じ込められてるっていう狩籠の丘(かりごめのおか)で、満足するのがいいかも。

比叡山7不思議の1つだね。

7不思議じゃなくて四大魔所の1つだよ。比叡山の僧侶も近付きたがらない場所

公式にも案内されていないほど大変恐ろしい場所だと聞くが…

回峰行者ですら恐れる四大魔所か…オカルトというより伝説だな。

比叡山の七不思議の坂本・靄船は何か言い伝えの由来があるのでしょうか?
お盆に坂本から亡者を乗せて叡山を登っていくっていう・・・そもそも伝説だけど、一つだけ人の生死に関わる話やから


比叡山は数十年前に、浮浪者による女子大生殺人事件があったよね。
山頂遊園地(閉園)のお化け屋敷に本物が出ただとか、ロープウェイの最終の便に乗っている客がいただとか、まぁ色々あるがね。
個人的には比叡山を滋賀県民が滋賀の領土と言い張るのがオカルトw
山頂は左京区、延暦寺は滋賀のはず、要は半々でいいじゃないと言いたいのです。

比叡山は織田信長による焼き打ちがあったから、事件が起こるのはその辺からの因縁が強いと思う。

比叡山、友達と歩いて登ったら、祠の辺りで和服の婆さんと幼女に追い越された。悔しいので、走って追い越そうとしたら、忽然と二人は消えた 見つからない。二人が付けていたと思える鈴の音が、未だに忘れられない。
比叡山が霊山だと知ったのは、それから暫くしてからです。あれは不思議だったなぁ。


そういえば、比叡山への道の途中に「幽霊注意」の標識/地蔵が置いてあるらしいんだけど…
ま、一番怖いのは「猿と目を合わせないでください」という標識が。

彼女と京都を観光してタクシーで比叡山に登ったんだよ。帰りも同じタクシーで下ってたんだけど、ある地点に来るとお地蔵さまが立っていて、お地蔵様のすぐ後ろの山の表面を水がチロチロとながれてたんだよ。
お地蔵様がこんなところに・・・と思っていると、間もなくまた、お地蔵様が立ってたんだよ。 
最初は何箇所もお地蔵様があるんだなぁくらいしか思ってなかったんだけど、なんと同じく山の表面を水が流れて・・・どう見ても全く同じお地蔵様に見える。ふと彼女を見たら彼女も、お地蔵様を真剣に見てたんだよ。 
二人でなんか変だね、さっきから何回も あのお地蔵様を見るねとかヒソヒソ話してたら、運転手さんが「いやぁ、この辺はこんなことがよくあるんですよ」って、かなり引き攣った笑顔で話したんだ。 
びびったよ、もう一生ぐるぐる周んのかと・・・結局は麓に着いたけど夕方の5時頃下ったのにHotelに着いたのは9時頃だったよ。ねぇ地元の方々こんなこと結構よくあるんですか?


比叡山から鞍馬山の方向に走って行く山道で時々、日によって時間が異常にかかる道がある。
これって狐か狸の仕業?

比叡山のドライブウェイ、やばいらしいですね。いつまでたっても下山できなくなったりするらしい。
タクシーの運転手さんも、経験アリの人いるみたいだし、漫画家の山岸涼子も比叡山で体験した時間のパラドックスの事を漫画で描いてました。

夜の比叡山とか、子供の頃、話聞きましたけどねえ。迷って、野武士見て、気が付くと崖っぷちだったとか、そういう奴。あと、昔は山頂遊園地でお化け屋敷をやっていて、そこは居るって話でした。

比叡山といえば 本当の幽霊が出るとか噂されていたお化け屋敷ってもうやってないのでしょうかね?

お化け屋敷も遊園地も無く、今は西洋風庭園に変わっている。
ただ、比叡山の麓の八瀬は昼間でも薄暗く湿っぽい空気。

比叡山山上遊園地は出るって噂だったな.行ったことないまま潰れたが

比叡山のお化け屋敷には、確かになんか居たなー。
人かどうかは判んなかったけど、あそこはガチでした。

友人がそこでバイト(脅かす役)してたのだが、ある日親子連れがやってきた。
子供は大泣きでギャーギャーわめいていた。
子供「おばけーおばけー!」
父親「怖ないって。あれ、中に人入ってんねんて」
子供「うわーーーん。あそこに赤ちゃんがあ!」
内心笑いながら脅かし役に徹していた友人達は凍りついた。
赤ちゃんのおばけなんて用意してなかった。
「俺らを怖がらせてどないすんねん!」と一同半泣きになったそうな

京都御所猿が辻⇒幸神社⇒赤山禅院⇒延暦寺⇒日吉大社。この完璧な皇城表鬼門の防衛線。

自身が体感して京都で確実にやばいのは二条城の門と門の間です。
落武者が大量にいます。霊が寄って来やすい人は見えなくても絶対に行かないで下さい!!憑いてきます。

修学旅行とかで二条城行ったことないの?
壁一枚越えた、あの敷地内はあの世の延長だ。うじゃうじゃいるし、当時の生活がまるまる残ってるし、触るに恐ろしいや。

「二条大宮の辻」現在の二条城内南東にあたるこの場所はむかし、妖怪が跋扈する「あわわの辻」と呼ばれていた。夜な夜な百鬼夜行が現われ、それらを見た人々は「あわわ…」と声をだし腰を抜かしたからその名が付いたそうな。今昔物語では陰陽師安倍晴明があわわの辻で百鬼夜行と遭遇した話がある。

二条城というと、ライトアップで夜に薄ら青白く映し出された小気味悪い漆喰の壁が思い出されます。
幼少の頃「夜、お堀の周りを歩くとお化けがでる」と言われていました。
(昔はお堀に生まれたばかりの子猫をほかす人が多かったからだそう)
祖父母宅にいた猫たちも皆お堀に捨てられていた猫たちだったと聞いています。

おれの婆ちゃんの妹が子供の頃に二条城のお堀で小山ほどの大入道を見たそうな。
大きく息を吸い込んでフー!っと息を吹きかけられて飛ばされそうになったそうな。

お堀への入水自殺は明治頃から頻繁にあったらしいよ。

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京都御所
越後神社

渡辺綱が羅城門で切り取った鬼の腕を入れた石櫃を手水鉢とした「鬼の手水鉢」があります。

西本願寺が世界遺産になって東本願寺が世界遺産になっていないのは何故ですか?
東本願寺の方が駅から近くて敷地も広いのですが。

西本願寺は数多くの国宝建築や特別名勝の庭園などが存在するが、東本願寺には重要な不動産の文化財が無いから。

現在西本願寺の駐車場になっている場所というのは、西本願寺より歴史の古い本国寺というお寺があった場所で、色々といわくのある場所らしいです。
西本願寺の南隣、興正寺の宿坊でよく合宿宴会やってたりするんですが、複数の“感じる”タイプの人から「北の方に何か感じる」と言われています。

今の位置に本願寺があるってのが、江戸時代になってからだ。
それまでは、比叡山やら日蓮宗やら信長やらに焼打ちにされたり墓を暴かれたりしたあげく、そのたびに建てなおしたり場所を転々とするという悲しい歴史だよ

本願寺の歴史はざっとこんな形で、織田が京都に来た時には本願寺は、六角と法華宗の連中に叩き出されたあとで、大阪にいたわけです。
大谷のあたりに親鸞の墓を建てたが延暦寺など既存寺院の圧力。あっという間に焼き討ちされて衰微

山科に城郭寺院を立てた(山科本願寺)六角・法華宗勢力の京都浸透。あっという間に焼き討ちされて大阪移転(石山本願寺)

織田勢力の京都席巻。織田勢力による石山本願寺攻め、石山退去。

豊臣・徳川への接近し、本願寺の京都帰還。西本願寺(豊臣系)と東本願寺(徳川系)への分裂。

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室町幕府の管領 細川勝元が宝永2年(1450年)が譲り受けて寺地とした。
方丈の枯山水式石庭が有名

鏡容池(きょうようち)から弁天島を望む。後ろは衣笠山

建物「庫裡(こり)」の前の石段

庫裡(こり)と呼ばれる建物。禅宗寺院建築の簡素にして重厚
特に木組みと白壁の調和が、静寂の中に構成美をかもしだしている

狭すぎ。京都で一番がっかりした。
 
マジで狭い。でも見てて飽きない。

ここの朱印が好きだわ

(以下、記事引用)
鉄船の肖像画、行方不明京都・龍安寺
http://s.kyoto-np.jp/top/article/20150325000015

 屈指の名庭、龍安寺(京都市右京区)の方丈庭園(石庭)をつくったとの説がある
室町時代の禅僧・般若房鉄船(はんにゃぼうてっせん)の肖像画を、同寺が探している。
鉄船が初代住職を務めた別の寺に収蔵されていたが、昭和に入って無住状態が続き、いつごろからか所在が分からなくなっている。

■初代住職務めた寺 30年無住、流出か

 龍安寺は1450年の創建で、石庭は国の史跡・特別名勝に指定されている。
寺は応仁の乱で焼失した後に再建され、石庭も同時期につくられたとされるが、
作者については開山の義天玄承(ぎてんげんしょう)、絵師の相阿弥など複数の説があり、石庭をめぐる多くの謎の一つとなっている。

 鉄船は、その作者の候補の一人。岐阜の僧侶だったが、
龍安寺住職の特芳禅傑(とくほうぜんけつ)に呼び寄せられて近くの多福院の初代住職に就き、1492年に亡くなった。
その優れた作庭技術で龍安寺の石庭を整備した功績から、同院をあてがわれたとの説が有力視されている。

 肖像画は、かつて書籍などに掲載されたことがあり、少なくとも1950年代までは多福院に所蔵されていたことが分かっている。
9年前に龍安寺が肖像画の複製を作ろうとした際、所在不明に気付いた。
同院は1943年から30年以上、無住状態が続いており、この間に流出した可能性があるという。

 龍安寺では過去のモノクロ写真をもとにカラー複製を作ったが、色彩は想像で施している。
岩田晃治事務長は 「石庭は、現在の完成された形になるまでに何度かつくり替えられてきたはずだが、
最初の作者は鉄船か、室町後期の禅僧・子建西堂(しけんさいどう)の可能性が高い。
大切な肖像画なので、情報があれば、ぜひとも知らせてほしい」と話している。

<般若房鉄船> 龍安寺開山の義天玄承の下で学び、同寺中興の祖・特芳禅傑とは相弟子だった。
岐阜出身で各地を行脚していたが、晩年に特芳に招かれて福庵(現・多福院、1482年創建)の庵主となり、84歳で亡くなった。

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