カテゴリ: 京都の妖怪・物ノ怪
妖怪
源頼家が暗殺されたときに、その死体から数多くの妖怪が湧き出てきたという…。
日本の歴史に一番影響を与えているのは、大魔王たる崇徳院だと思う。
元禄ニ年に刊行された「京羽二重織留」の分類分けに奇瑞と妖怪というのがあります。
京都に纏わる人物や場所、事跡、故事などを項目別に紹介した本で、その一つに「妖怪」の項目が設定されている。妖怪の項目に載るのは以下の四種。
・弧尾、乗白駒 ・仏像祟 ・老翁現 ・飛火、移堂
2009年に江戸時代に描かれたとされる「百鬼夜行絵巻」が京都市で見つかった。
※たくさんの妖怪が練り歩く様子を描いた巻物
妖怪さんたちは神様たちとは折り合いが悪いの?
妖怪は神様の名を騙って悪いことするみたいだよ
妖怪というか鬼だね。折り合いが悪いもなにもある意味同じモノ。鬼も神も同じモノ。鬼を神式で祀ったモノが神。
平安の妖怪として有名なのはやはり土蜘蛛や羅城門の鬼とかの源頼光絡みの物語ですかね。
水木しげるが「妖怪なんていないんだ」ってスランプ中だった時に次女が京都の修学旅行先で障子にビッシリ目が張り付いていたと水木しげるに報告し、水木しげるは「目目連だ!妖怪はいたんだ!」と、スランプから脱出できたという話がある。
京都に旅行行った女の子が街中で公家みたいのが歩いてて何あれ?ってよく見ようとしたら連れの女の子が視線をそらして知らん振りしてろ!って言ってきたそうな
あれ妖怪だからって後で言われて妖怪図鑑で調べてみたらぬらりひょんそっくりだったって。
俺が行ったのは伏見神社あたりなんだけど、往来にはあんまり居ないんだけど屋根に上にいっぱい黄色い獣みたいなのがいてね。
普通は向こう(妖怪)も人間(俺含め)に無関心なんだけど京都の彼らは俺とか通行人をじーっと見つめてて異様な雰囲気だったわ。
京都の晴明神社へ行ったとき、その周辺に妖が多くてビビった。
でも、中はいると頭痛とか嫌な感じ(たまに見えすぎるとそういったのに襲われる)が薄れてよくなった。あそこの湧き水みたいなのお勧めしますよ。いつも身に着けてるお守りとかあるなら、その水をかけておくといいですよ。
信じてくれるか分からないけど三年前。武者小路通で夜中に公家の行列を見ました。
大学で飲んでて家に帰る途中でした。少し酔ってたけど、あんな幻覚を見るものだろうか。
四条大宮に妖怪らしきモノがいた。浴衣に鉢巻、その上からドテラ羽織って、兵児帯。
そして一本歯の下駄はいてた。天狗か何かやと思う。昼間だ。夢じゃ無い。
烏丸通りを北大路から四条まで歩いたときに、たぶん丸田町から今出川の間だったと思うのですが(うろ覚えすみません)目の前を大きなサルがゆっくり歩いてすぐ近くの神社に入っていきました。普通よりかなり大きくて白かったです。
すぐにその神社をのぞきましたが見つからず、何の気配もしませんでした。夕方でしたがまだ明るい時間のことでした。一緒にいた友人も見ていたので見間違いではないと思います。
なぜか当時は深く追求せず、「猿の神様か・・」と納得していましたが今頃激しく気になりはじめました。該当地域の方やお心当たりのある方、何かご存知でしたら教えてください。
赤山禅院の眷属かいな?猿の辻の猿じゃないやろ?凄い物、見はったんやな。
昔、京都に出現したという輪入道。江戸時代の絵師・鳥山石燕の「今昔画図続百鬼」には炎に包まれた巨大な車輪の中央に、はげ頭でひげを生やした恐ろしい顔が付いているという姿で描かれている。
この輪入道は炎をあげながら夜の東洞院通りなどを走り回り、姿を見たものは魂を抜かれるなどして殺されると言われていた。しかし、「此所勝母里」と書かれてあるお札を戸口に貼っておけば輪入道から逃れられるとされていた。
鳥山石燕の画中の解説 《車の轂に大なる入道の首つきたるが 、かた輪にてをのれとめぐりありくあり。 これをみる者魂を失う。此所勝母の里と紙にかきて家の出入の戸におせば、あへてちかづく事なしとぞ》 とある。
妖怪「尻目」人に会うと服を脱いで全裸になり、尻を突き出し尻の目を光らせて人を脅かす。
京都市の帷子ノ辻に現れた妖怪らしい。たぶんのっぺらぼうの亜種。
御所には以津真天(イツマデ)という怪鳥がでた。疫病で死者が多く出ているころに御所の上空を「いつまでも、いつまでも」と鳴いて飛んでいたという。弓で打ち落とすとその姿は顔は人間、身体は蛇、爪は刃物のように鋭かったという。
昔かまいたちに遭遇?したときはたまげたわ。
仏教が日本に広まったのは妖怪や魑魅魍魎を退けるためだった。
わざわざ大変な思いをして仏教を取り入れたということは、実際に妖怪や魑魅魍魎による甚大な被害を被っていたということ。
安倍晴明とか小野小町は普通だと頭のおかしい人として片付けられてしまうけど、そうではなくて教科書にまで載るということはそれだけの功績(妖怪退治)があったってこと。
遠野物語に出てくる座敷童やマヨヒガとかの近代の妖怪や民間伝承はどう考えてる?
近代の妖怪は無害なものが多かったり有害でも実態がなかったりするものが多い
それは陰陽師などによる妖怪退治から免れた妖怪の末裔だから
あと妖怪といえば江戸時代の妖怪絵巻を思い浮かべる人も多いと思う。
あれは江戸時代の妖怪が平和的なものがほとんどだったからこそ描けた。
それまでにいた凶悪な妖怪たちは後世に記録を遺すことすら憚れるような存在だった。
妖怪の歴史を研究した香川雅信によると、中世以来、恐怖と忌避の対象だった妖怪が、いわゆるキャラクター化したのは享保年間頃かららしい。
複数の人間が妖怪は存在すると思った途端生まれる、人間の想いが具現化したものもいる
遠野物語の河童の子は奇形児(ぶどうっ子)のこと言ってるみたいやな
河童は落ち武者という説もあるよな。流れ着いた落ち武者が行く宛もなく、近く集落にも入れずに河辺や沼で魚を捕ったり身を清めてたりしたもの、という。
「頭に皿があって周りに長い髪」という特徴も、月代を剃って側頭部~後頭部を結っていない落ち武者のそれに似ている。
小豆洗いは元々は米洗いだったんだって。京都のとある米問屋の若旦那が夜中に米を研いでたんだと。夜中にショキショキ米を研ぐのが不気味って事で評判になったっていう話が伝わっている。
この話がモデルになって妖怪小豆洗いが出来たらしい。
うちの親の実家らへんでは、夕方以降海で泳いでいると、海坊主に足を引っ張られてそのままさらわれるという言い伝えがある。実のところは、子供を遅くまで海で遊ばせないための、昔の人の作り話。
妖怪って単純に人の恐怖や理解できないモノの具現化したものもあるけど、そういうものもあるんだよね。それが面白い。
昔の木造家屋は夜になって気温が下がると木材が収縮してパキパキいうやろ?
あれを「見えないけど誰かおる」って思ったんや。
昔の人々にとって闇は深刻な問題だったと思う。
その闇への恐怖が妖怪や魑魅魍魎を生み出す糧となっていた。
昔は怖い自然現象とか日常の出来事に説明が付けられなかったから妖怪の仕業という事にした。
恐ろしい妖怪の造形は奇形の動物や人間が元だったりする事もあるし世代を経て人間の恐怖心によってよりおどろおどろしく変化して行ったんやで。
藤原成親は源平合戦の萌芽がみられるころ、吉備路で崖下の地面に剣を立てた所に突き落とされる、という無残なかたちで殺された。下津井の民はむごい殺され方に安心する(ここは平氏の牙城でもあった)と同時に、土地に恨みがやってくることを「おそれ」たんだろう。
妖怪とは「おそれ」だと思う。成親は、死んで妖怪化したんだから。神格化するには、禍々しすぎるものも含めて。
日本の妖怪話って、水木しげるがこうだ!と言い切るとそれが定説になっちゃうのが良くないと思う。
水木先生だって妖怪図鑑とかで古典から紹介してる時と、鬼太郎に出す時でぜんぜん違う特徴つけてるのがよくあるのに、一般的には鬼太郎に出たときの印象になってしまう。
水木先生がいなければ失われていた妖怪の伝承が多々あるとは思うけど、逆に変質してしまっている妖怪話も多いんだろうな。
今では医学とか科学で説明できることが当時は不可能やったから、それを妖怪で一括にしたってことなん?
違う、結果的に後世で科学的に説明がついたというだけ。
なんで現代に妖怪とか悪魔いないの?
実はいるけど普通の人が気づかない形で存在している。
目立つ振る舞いをしていた妖怪は尽く滅ぼされた。
日本三大悪妖怪って大江山の酒呑童子、玉藻前、大獄丸?
それは中世の三大妖怪
九尾が入るのは日本三大悪妖怪。妖怪の中でも悪い奴らの集まり。
ちなみに日本三大悪妖怪は強さとは別。とにかく悪い
天狗(てんぐ)
天狗は どこで見張ってるかわかんないですね…謝ったら すぐに 晴れてきて またまた怖かったです。
京都在住の婆ちゃんが、天狗の一匹や2匹すぐ見れるって言ってた。
京都に天狗が住んでるのは、けっこう有名ですよねわーい
では、その天狗が風をおこしてる、というのは知ってますか?
京都は、天狗がいるところを出発点として、普通ではあり得ない風の吹き方をします。
例えば、嵐山辺りが北から南へ風が吹いている同時刻に京都駅辺りでは西から東へ。
山科駅辺りでは、南から北へ…といった感じです。
一昨日、京都の山科聖天から南禅寺に抜ける山道を歩いていた時に 文字通り林立していた木からギィーとかたむく音が聞こえてきたので これは危ないと思い、回りを見渡すも一向そんな木は見当たらない。 「はて、こいつは狸にでも化かされたのか」と思っていたが先ほど調べると どうやら「天狗倒し」という妖怪らしい。 南禅寺や日向大神宮から御陵までの道にはとりたてておかしな雰囲気は ないのだが山科聖天から御陵の間は少し雰囲気が違うのである。 確かに山科聖天からの道の途中にあるオブジェはなんか怖いけども それとは違う何かがあるのだろうか。
近在の方、情報求む。 なお山科聖天から南禅寺までは1.5時間もあれば十分に歩ける距離です。 経験上、革靴とサンダルはお勧めしない山道です。
京都の山岳クラブの会長さんが、70年代末か80年代初め頃、京都北山の原生林の奥深くで、誰も居ないのにノコギリでギーコギーコ木を切り、バシバシと倒れる音が聞こえるという「天狗倒し」を体験した話をエッセイに書いておられました。
家が山の際にあるのだが(山といっても日帰り登山が出来る程度の低山) 夜中や明け方近くに時折、「ズンッ!」といった重量物を落としたような 地響きを感じることがある。
俗に言う「天狗倒し」というものであろうか?
自由に空を飛び回る天狗殿は電気・通信の神様でもあるらしい。JR秋葉原駅がもと天狗さんを祭った神社で、そのお陰で秋葉原周辺は電気通信の街として栄えたらしい。と、何かで読みましたわ。
天狗は高い知識や能力を持ってはいても、それを誇る「慢心」が強すぎる人がなる、というか「落ちてしまった」姿であるなんて言い方もあるらしいですね。
天狗さんも信仰的な面では結構“恐い”存在みたいですから、下手に触らない方が良いですかね。
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狐
狐はあくまでも眷属(けんぞく)であって主神の補佐役といった存在だよ。
狐は神の使いなのは有名だけど、狐が祭神の神社ってあるの?
狐そのものがまつられてる所もある。
相国寺の宗旦狐とか。
妖狐伝説の奈良の源九郎稲荷も。
伏見稲荷大社の「白狐社」も古い縁起とか見ると狐そのものを祭祀した社だったらしい。
白狐は鶏が好きなんだって。
油揚げも好きみたいだよ。いい油を使った揚げ物は好きみたいです。
肉食禁止令についてはわからないよ。昔は肉は一般的ではなかったみたい。
お芋って白狐が言うけど、これって、昔からの日本の芋だよね。
京都の方とかで、お芋さんとかいうんだって。それが昔は御馳走だったようです。
サツマイモを油で素揚げにしたものなんか好きですよ。
祖父は狐によく化かされてた様です。
使いの帰りに、道に迷い、山でアケビをとって食べていると後から声が聞こえ「○○行列はじまった~」という掛け声と共に・・・提灯行列が山へと入っていくので何となくついていったそうです。そしたら、可愛い女の子たちと川遊びをしていたところまで記憶があったそうです。
その頃爺さんの実家では神隠しにあったと村総出で大騒ぎしていた。
そして翌朝村のはずれに社があってそこに、使いの荷物を見つけ人が集まったそうです。
同刻くらいに山を越えた隣町にジジィは居ました。
どういう訳か田んぼの中に胸まで突き刺さっていたそうです。
何がおきたか解からないのですが、その時女の子に貰ったという鈴が我が家にあるのが不思議です。
狸は人間を馬鹿にする為に化けるが、狐は人間を誘惑する為に化ける
妖怪という言葉はどこまでがそうなのかよく解かりませんが、お狐さんは結構頻繁にお伺いします。あとは餓鬼とよばれるものでしょうか。動物系が多いですかね。地蔵尊のお祭りやら地蔵盆などで、お供の狐火を見かけます。何度か後を追いたくなりました・・・笑
母は子供の頃、頻繁に狐火を目撃したそうです。
夕方銭湯からの帰路で対岸の山に狐火が連なっていくつも見えたそうです。
京都でも狐火は伝説?があるのですか?昔はよく見えたのではないかと思うんですが…。
京都にもよく見られたという狐火は、大槻教授に言わせると空気中の何かがレンズの役目をしてそう見えるというけど、昔から私の田舎で見えた狐火は回りに灯かりらしい灯かりも無い、しかも山の中腹あたりで見られることが多いんです。
そう言えば子供の頃は、人魂とか狐火、狸火とかの目撃談多かったね。お葬式の家からフワッと青白い人魂(魂)が飛び立ったとか、雨上がり土葬の墓地で火の玉(燐)を追いかけたり。草むらを赤い大きい火の玉が転がってたとか(狸火?)。 いつの間にか、あまり聞かなくなったね。
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・ 仁和寺 ( 狐のお化け )
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鬼
有名なところでは羅刹谷とか宴の松原、羅生門などに。鬼は美女とか美男子に化けて人を惑わし、その人を食べるということが多かったようです。
対して鬼狩りのプロフェッショナルも存在して、代表的なのが安倍清明、源頼光、比叡山の超能力者であった元山大師などですね。
京都に巣食う鬼達
日本三大悪妖怪と云われる酒呑童子(しゅてんどうじ)
その家来でもある茨木童子(いばらきどうじ)
・京都の北端、大江山に鬼の拠点を構えていた酒呑童子一派。
・京都市内に下りては娘を浚ったり、人を食ったりと悪行を働いていた。
・帝の命令により、源頼光率いる頼光四天王が組織した討伐対が鬼の住処である大江山に向った。
・源頼光とは藤原道長に仕える貴族(藤原四天王の一人)であり住まいは一条(安倍晴明ともご近所であり友人)
・討伐の際に、鬼を酔わす為に用いた酒の名が「神便鬼毒酒」という。
これに用いたとされる酒徳利と杯が京都の成相寺に所蔵されていると伝えられている。
・上手く鬼の住処に入り込み酒呑童子に取り入った討伐隊一行は、油断させるために鬼から差し出された人肉や血酒を軽々飲んだ。お返しに「神便鬼毒酒」を鬼達へ振舞った。
・そうして、頼光は酒に酔って眠り込んだ酒呑童子の首を切り落とした。
その際に酒呑童子は「鬼神に横道無きものを…」と呟き(「鬼でもやらないような卑怯な欺き方を」と いう意味)首を跳ねられてもなお頼光の兜に噛み付きしばらく離れなかったという・・・。
・この時、酒呑童子の家来である茨木童子は、頼光四天王の1人渡辺綱と格闘していたが酒呑童子が討ち取られる姿を目撃し勝ち目無しと悟り逃亡。
・大勝利に終わった討伐隊は酒呑童子の首を京に持ち帰ろうとするが、帰路途中の老ノ坂峠で休憩していた頼光討伐隊へ道端の子安の地蔵尊が「不浄なものを京に持ち込むなかれ」と警告を発し、首が重くなり持ち上げられなくなる。
・頼光四天王の一人、足柄山にて熊と相撲をとったという怪力の持ち主、坂田金時(金太郎)が「証拠品として持ち帰らなければいけない」と力任せに持ち上げようとするが、びくともしない。
・仕方なく、酒呑童子の首をその場に埋めた。現在の首塚大明神である。
酒呑童子が観念した折に「罪を償う」と言い残したことから、首塚大明神では首から上の病に霊験あらたかとされている。
・時は流れ、羅生門に鬼が出現するという噂が京を巡る・・・。
・ある日、渡辺綱が夜中に一条戻橋のたもと(羅生門という説もあり)を通りかかると、美しい女性が声をかけてきた。
・「夜も更けて恐ろしいので家まで送ってほしい」と頼まれた為、渡辺綱は怪しいと思いながらも自分の馬に乗せた。
・突然、女は鬼の姿となり、髪を掴み北西の方角(愛宕山)へ飛んでいこうとした。
・渡辺綱は冷静に刀で鬼の腕を切り落とした(腕が落下した場所は北野天満宮)。
・切り落とした鬼の腕の事を不吉に思った渡辺綱は、有名な呪術師である陰陽師の安倍清明に相談する。
・安倍晴明は「鬼は必ず腕を取り返しにくる」と渡辺綱に警告した。
・警告通り、鬼が腕を取り戻そうとやってくるが、呪術師より魔除をされている家には近寄れない
・7日目の夜に渡辺綱の母が遠くから訪ねてくる。
・状況を話すも母は聞き入れてくれずに、仕方なく家に招き入れる。
・噂の鬼の腕を見せて欲しいとせがまれ、見せると母は鬼の姿となり腕を持ち消え去った。
・その鬼こそが茨木童子であった。大江山で唯一難を逃れ、復讐の機会を伺っていたのである
・その後、茨木童子の消息は分かっていない。
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酒呑童子も茨木童子も、元々鬼であった訳ではない。
酒呑童子
・酒呑童子は幼き頃から暴れん坊で手がつけられない人物であった
・暴れん坊であったが、知能指数が極めて高く、周囲から鬼の子と疎まれていた
・容姿端麗であった為に異性からのアプローチも多かったが、すべて断った
その中には思いを叶えられず死んでしまった女性もいる
・異性から貰ったラブレターを焼いていると、怨念の篭った煙を吸ってしまい鬼と化した説
・大蛇と人の子として生まれ、幼き頃から比叡山に預けられ修行するも仏法で禁止されていた酒に 手をだし忌み嫌われていた
・ある日、祭りの際に被った鬼の面が取れずに、そのまま鬼として生きる事を選んだ説
茨木童子
・茨木童子は美少年(美少女という説もある)であり、多くの異性からラブレターを貰っていた
・その中に、血で綴ったラブレターがあり、その強すぎる想いの篭った血文を舐めてしまったが為に鬼と化してしまった説がある
・鬼となり、酒呑童子と出会い、2人で村を荒らしまわっているとその噂を聞きつけた茨木童子の母が、彼の幼い頃の産着を着けて目の前に立ち塞がった
・それを見た茨木童子は、子供の頃の想い出が甦ったかのように一瞬だけ人の心を取り戻し「二度とこの地を踏まぬ」と約束し酒呑童子と共に消え去ったという
そして2人は各地を転々とし、彼等の終焉の地である京を目指す事になる
魑魅魍魎1人1人にも、我々と同じように人生があるのだと感じさせる伝説が京には残っている
酒呑童子と言うと大江山が有名ですが、実は酒呑童子伝説は
1.丹波と丹後の境にある大江山(京都府加佐郡大江町付近)
2.山城国と丹波国の国境であった大枝山(京都市西京区・亀岡市付近)
3.新潟県寺泊の国上寺
の3ヶ所に伝説が残っているそうです。
実際になんらかの事件?があったのは2の大枝説が有力なようです。
大枝は平安当時、山城国と山陰地方を結ぶ交通の要所で、大枝から旧山陰道をたどると、途中に老ノ坂峠があって酒呑童子の首塚があるんですよ。
なので、大江山説は後世に伝わった伝説だと言う説が有力らしいのです。
テレビで観たんだけど、酒天童子や茨木童子を斬った渡辺綱の子孫が京都市内で造り酒屋をやっていて、現存しているっていうことでテレビに出てた。
現在の母屋を作り変える前の家の天井には、茨木童子が蹴り破った天井が残っていたと言ってた。
酒天童子を斬ったという刀(太刀)が現存してて国宝になってる
(記事引用)京都発見(三)―洛北の夢―
http://www.shinchosha.co.jp/books/html/303015.html
京の都の近くに鬼の子孫の住む里があるという。このおぞましい話を語るのは日本民俗学の創始者・柳田國男である。柳田が言うからには、この話もまんざら根拠のない話ではあるまい。
事実、八瀬童子と称する八瀬の人々は代々鬼の子孫であるということを自らはっきりと公言して来た。
(中略)
八瀬の人たちが八瀬童子と呼ばれるのは、髪が総髪、ざんばら髪であったからである。
江戸時代の末まで八瀬の人たちはざんばら髪であり、普通の人たちと明らかに異なることを自ら示していたが、この総髪、ざんばら髪というのは、いかなる風習であろうか。この総髪、ざんばら髪は、古くは日本に土着していた縄文人の頭髪であり、明治までアイヌの人も総髪であった。とすれば、アイヌの人たちが縄文の遺民であったように、八瀬の人たちもまた縄文の遺民であったのではなかろうか。
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